/// 舞楽「胡蝶」概要
■作曲■
藤原忠房(ふじわらのただふさ、生年不詳~929年、歌人・楽人)
■初演■
延喜8年(908年ごろ)
■振付
敦実親王(あつみしんのう、893~967年、宇多天皇第八皇子)
■分類
右方(うほう)・高麗楽・壱越調(いちこつちょう)
■番舞(つがいまい)
左方(さほう)・唐楽「迦陵頻(かりょうびん)」
宇多天皇(867~931年)の要請を受け、相撲節会(すもうのせちえ)に披露される童相撲(わらわずもう)の「童舞(わらわまい)」として、作曲されたと言われます。
ちなみに「胡蝶」というのは「胡(こ)にいる蝶」です。「胡(こ)」は古い中国にとっての外国で、ほんとうは東胡(モンゴルやカザフスタンあたり)と西胡(ソグド人が支配していたあたり、アフガニスタンなど)に分かれます。広く中央アジア地域を指すようです。要するに「胡蝶」とは、イラン系の人々が居住する地域の、市場など色鮮やかな布のなかをひらひら舞い飛ぶ蝶のことです。
舞楽「胡蝶」 |
/// 荘子「胡蝶の夢」
荘子(紀元前369~286年)「斉物論(さいぶつろん)」より、「胡蝶の夢」 |
むかし、わたし荘周(そうしゅう)は夢で胡蝶になった ひらひら舞い飛ぶ蝶のこと 生きることをたのしみ、心の底から満足していた 自分が荘周(そうしゅう)であるとは知らなかった ふと目が覚めたところ、自分は明らかに荘周(そうしゅう)ではないか しかし考えてみれば 自分は荘周(そうしゅう)の夢で蝶になったのやら はたまた 胡蝶の夢で荘周(そうしゅう)になっているのやら、わからない 自分は自分で変わりはないが 荘周(そうしゅう)と胡蝶では、もちろん形のうえでの区別がある これが万物の変化と言うもの、普遍の真理の象徴なのだ |
やけに実存主義的な荘子の論「胡蝶の夢」を、現代語訳でご紹介しました。
それにしても「荘周(そうしゅう)の夢で胡蝶になったやら、胡蝶の夢で荘周(そうしゅう)になっているやら」とニヒルに構えながら、書出しが「むかし、わたし荘周(そうしゅう)は夢で胡蝶になった(昔者荘周夢為胡蝶)」なのは興ざめです。
荘子の思想は道教にとりこまれ、後代、荘子は道教始祖のひとりに祭り上げられました。「胡蝶の夢」が、どのような経路で古代日本に紹介されたかはわかりません。しかし延喜8年(908ごろ)、藤原忠房(ふじわらただふさ)は勅命を受けて舞楽を作曲し「胡蝶」と名づけました。
ただし古い文献ではタイトルが「小蝶」になっているものもあり、最初から「胡にいる蝶」を描いていたかは不明です。
舞楽「胡蝶」は舞楽「伽陵頻(かりょうびん、略して「鳥」)」とともに「『源氏物語』「胡蝶」の巻に登場し、典雅で豪華な王朝絵巻の象徴となっています。
舞楽「伽陵頻」 |
/// 歌舞伎舞踊・長唄「鏡獅子」の胡蝶
歌舞伎舞踊・長唄「春興鏡獅子(しゅんきょうかがみじし、3代目杵屋正次郎作、明治26=1893年)」胡蝶の段は、まるっと既存の長唄「鏡獅子」(杵屋六左衛門作、何代目か不明)をとりこんでいます。同曲は歌舞伎狂言・歌舞伎舞踊としての上演記録はないものの、長いあいだ名曲として知られていたものです。長唄「春興鏡獅子(しゅんきょうかがみじし)」製作者である9代目 市川団十郎(1838~1903年)と作詞者・福地桜痴(ふくちおうち、1841~1906年)がこの名曲を幕間狂言(まくあいきょうげん)がわりにとりこみ、2代目 藤間勘右衛門(ふじまかんえもん、1840~1925年)が振付をしました。
長唄「鏡獅子」は謡曲「胡蝶」を参考にしたもので、「蝶が花に恋する」内容のため別名「胡蝶」と呼ばれています。
上月まことイラスト・長唄「春興鏡獅子」の胡蝶 |
長唄「連獅子」も含め一般的な日本舞踊の発表会では、たいていの獅子もの舞踊の幕間狂言(まくあいきょうげん)にこの長唄「鏡獅子」の胡蝶が上演されます。幕間狂言(まくあいきょうげん)というのは、主役の衣装替えや舞台装置の変更のあいだ、つなぎで上演される別演目のことです。
///「源氏物語」胡蝶の巻
◆源氏物語「胡蝶」あらすじ
光源氏はかつての恋人・六条御息所(ろくじょうのみやすどころ)の遺児で養女の秋好中宮(あきこのむちゅうぐう)の里帰りに際し、自身の邸宅(六条院、六条御息所邸の跡地)の東側・春の町に咲きつどう花の美しさを、西側・秋の町にいる秋好中宮(あきこのむちゅうぐう)にも見せてあげたいと思い立ち、盛大な舟楽(舟と雅楽のあそび)を催した。数日続いた舟楽のある日は中宮の催す「季の御読経(きのみどきょう、宮中で旧暦二月と同八月に催される、経をあげる日)」にあたっていたため、春の町にいた殿上人(てんじょうびと)はひとり残らず秋の町へ来た。春の町の主である紫の上は女童(めのわらわ)4人に舞楽「伽陵頻(かりょうびん、中国から伝わった極楽の鳥の踊り)」の衣装を、別の女童(めのわらわ)4人に舞楽「胡蝶(こちょう、我が国で作られた胡にいる蝶の踊り)」の衣装を着させ、お供えの花を届けさせた。 |
舞楽「胡蝶」は、源氏物語に登場することで有名です。
紫式部(生没年不詳、平安中期の女流作家)「源氏物語」24帖「胡蝶」 |
鶯のうららかなる音に鳥の楽はなやかに聞きわたされて、池の水鳥もそこはかとなくさへづりわたるに、急になり果つるほど、飽かずおもしろし。蝶は、ましてはかなきさまに飛び立ちて、山吹の籬のもとに、咲きこぼれたる花の蔭に舞ひ入る。 (現代語訳) 鶯のうららかな啼き声に乗って「鳥の楽」が華やかに聞こえわたり、池の水鳥がそれとなく曲に合わせてさえずりはじめるころ、ふいに曲調が「急(序破急の急)」に変わって舞が激しくなるのは、何度観ても飽きないほど風変わりで素晴らしい。「蝶の楽」はそれにもまして、である。はかない様子で飛び立ったかと思うと、山吹の花垣の根元へ集まり、咲きこぼれる花の影に舞いながら入ってゆくのが、切なくてとても美しい。 |
このあと、光源氏の正妻・紫の上と、もと東宮妃でありながら光源氏に恋をした愛人・六条御息所の遺児は、少しばかりぎこちなく、お礼の和歌のやりとりをします。
紫の上が秋好中宮(あきこのむちゅうぐう)へ贈った歌 |
花園の 胡蝶をさへや下草に 秋まつむしは疎くみるらむ (現代語訳) 花園を飛ぶ胡蝶まで結局下草に隠れてしまうので、秋の松虫(秋を待つ御方)には、つまらなく覧いただいたことでしょうね。 |
秋好中宮(あきこのむちゅうぐう)が紫の上へ返した歌 |
昨日は音(ね)に泣きぬべくこそは(古今集十一巻四九八の歌を引用) 胡蝶にも誘われなまし心ありて 八重山吹の隔てざりせは (現代語訳) 声をあげて泣けるほどでした。 胡蝶に誘われて行ってみたい、八重に築かれた築山の山吹さえなかったなら、わたくしも春の町へ行けるのに。と、いう心もちでございましたよ。 |
舞楽「伽陵頻(かりょうびん)」も同「胡蝶」も、本来は美豆良(みずら)姿の男児4人による稚児舞です。「胡蝶」の巻で紫の上が女児(女童=めのわらわ)に舞わせたのは、花と舞のお供えが女性皇族への贈りものだったからでしょう。
上月まことイラスト・舞楽「胡蝶」 |
紫式部の言うとおり男児による舞楽「胡蝶」は何故だか胸をしめつけられるほどに儚(はかな)く見え、いっぽう女児が踊る歌舞伎舞踊・長唄「胡蝶(鏡獅子など)」は、どこか奔放で力強いと感じさせられます。どちらも優劣つけがたい魅力があり、とっても好きな演目です。
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上月まこと
本文・イラストともに上月まこと。一部パブリックドメインの写真や絵画を利用しています。Copyright ©2019- KOUDUKI Makoto All Rights Reserved. |
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