【おことわり】
このページの内容は下記ブログを整理し、さらに情報を加えたものです。
(1)人生いろいろ「鏡獅子」という踊り
(2)阿国歌舞伎の系譜。長唄「鏡獅子」全訳
/// 長唄「鏡獅子」概要
■本名題■
春興鏡獅子(しゅんきょう かがみじし)
■初演■
9代目 市川団十郎(1838~1903年)、明治26年(1893)、東京・歌舞伎座
■作曲■
3代目 杵屋正次郎(1827~1895年)
■作詞
福地桜痴(ふくちおうち、1841~1906年)
■振付
9代目 市川団十郎(1838~1903年)
2代目 藤間勘右衛門(1840~1925年、勘翁)※胡蝶のみ
前段を長唄「枕獅子」、後段を既存の長唄「鏡獅子」(杵屋六左衛門作長唄、歌舞伎としての上演記録はないが名曲として知られていた)を参考に新作した演目です。文久元年 (1861) 初演の「連獅子(勝三郎連獅子、河竹黙阿弥作詞、2代目 杵屋勝三郎作曲、初代 花柳寿輔振付)」衣装の趣向をとりいれ、後段(後ジテ)が立役(男性)になります。「連獅子」以前には獅子もの舞踊は女形の演目であり、「もの狂い」も女形のまま演じることが普通でした。
※「胡蝶」の段についての詳細はこちらから
9代目 市川団十郎 |
/// 長唄「枕獅子」の内容
初代 瀬川菊之丞「枕獅子」※長唄 |
きこりの唄の旋律が風に乗って流れついたかと思えば、 羊を追う牧童の笛の音も、聞こえてきます。 何につけ、ひとの生き方はさまざまなものですね。 浮世を渡って生きるわたしのそれは、 水辺に生(お)いる川竹のようなもの。 浮名を流すのが生業(なりわい)という、 つらいことばかりの人生です。 寄せては返す浪(なみ)のように、わたしの枕には夜毎(よごと)、 ちがう男が頭を休めます。 運命は定まらず流転し続けて浮世に呑み込まれ、 それでも女のまことを尽くそうと、 恋の闇の中へ、より深く迷い込んでゆくわたしです。 忍んでやってくる男との、忍び寝の枕にさ迷い、 馴染み客と語り合う、ひぢ枕に癒され、 初めてのお客との、新枕(にいまくら)に想いのたけを込め、 ふたつ枕をとんと並べ、来ないお前のために、ひとり寝の長い夜を待ち明かす。 |
9代目 市川団十郎(1838~1903年)が「春興鏡獅子(しゅんきょう かがみじし)」を新作するきっかけになった、長唄「枕獅子」の歌詞の一部を現代語訳で紹介しました。
長唄「枕獅子」は本名題(ほんなだい)を「英獅子乱曲(はなぶさ ししのらんぎよく)」と言い、寛保2年(1742)江戸・市村座で初代 瀬川菊之丞(1693~1749年)により初演されました。「女方石橋(おんながたしゃっきょう)」と呼ばれる、古い獅子ものです。前段で傾城(女郎)が枕を持って踊る「枕尽くし」があり、後段でこの傾城(女郎)が扇獅子(おうぎじし)を手に、獅子の「もの狂い」になる物語です。
この踊りを家で稽古していた二人の娘を見た9代目は、「たいせつに育てた娘たちに、何が悲しくて傾城(お女郎)を練習させないといけないのか」と、ふと疑問に感じたと言われます。
上月まことイラスト・女形(おんながた)獅子 |
ちょうどそのころ、歌舞伎座の福地桜痴(ふくち おうち、ジャーナリスト・劇作家)は「枕獅子」を改良して上演しないかと、9代目を説得していました。二人が意気投合して製作したのが、「春興鏡獅子(しゅんきょう かがみじし)」という演目です。
/// 長唄「枕獅子」からの改良点と、発表後の反応
9代目市川団十郎が福地桜痴(ふくち おうち)と相談し、改良したのは下記です。 |
(1)踊口説き(おどりくどき)の排除 主人公を傾城(女郎)から「千代田城大奥(江戸城大奥)」の御殿女中に変えました。主人公・弥生(おそらく武家の息女)の心に、浮世への恨みつらみは想起されません。 (2)詳細でリアルな時代考証の導入 馴染み客を二階から見送る遊郭の女たちの日常というか風俗描写を、千代田城大奥の「鏡餅曳(かがみもちひき)」の日の俄(にわか)奉納に変えることで、よりリアルに時代を描こうとしました。ただし実際には「鏡餅曳(かがみもちひき)」は「鏡餅を曳くお舟」を観るだけで、舞踊を奉納するなどの祭儀はありませんでした。リアル風、にしただけです。 (3)牡丹が描かれた扇子=扇獅子(おおぎじし)で獅子を表現する、暗喩の排除 傾城(女郎)が女形衣装のまま「扇獅子(おおぎじし)」で踊る獅子の「もの狂い」を、よりリアルな立役・獅子の扮装に変えました。そのせいで前段が女形、後段が立役になりました。 ****************** このほかにも胡蝶を実子・2代目 市川旭梅(いちかわ きょくばい、1893~1907年)と2代目 市川 翠扇(いちかわ すいせん、1888~1944年)に演じさせ、女性を歌舞伎舞台に上げることに成功しています。 |
発表後、おもに文士の人たちが猛批判をしたのは有名な話です。だいたいは時代考証の甘さに対する批判で、伊勢音頭を取り込んだ「はたち鬘(かつら)」という歌詞を「その年齢でお小姓(腰元内部の若輩者の階級、13~4歳)と呼ばれるのは不自然」や、「鏡餅曳(かがみもちひき)の儀式に、俄(にわか)奉納などの祭儀は存在しない」というものでした。
しかし「はたち鬘(かつら)」は前述のとおり、取り込んだ民謡に元からあった歌詞です。「鏡餅曳(かがみもちひき)」行事の改変にしても、長いあいだタブーだった「大奥」を、そのまま描くことに躊躇(ちゅうちょ)があったとも考えられます。江戸時代のことですが、千代田城大奥を描(えが)いたと噂されただけで発禁になった絵草紙(「偐紫田舎源氏=にせむらさき いなかげんじ」柳亭種彦作、1829~1842年刊行)が、あったのです。
「春興鏡獅子(しゅんきょう かがみじし)」初演からさかのぼること1年前、明治25年(1892)、ジャーナリストと学者が共著した千代田城大奥についての研究書「千代田城大奥(永島今四郎、太田貞雄、共著)」が出版されます。かつて腰元として大奥に勤めていた人物などに聞き取り調査したものですが、「大奥の猫は全部メスだった」などという、いい加減な噂話まで含まれたため学術的な評価は高いと言えません。それでも、そこに書いてあった内容は、もと江戸庶民をおおいに驚愕させました。
もっとも話題になったのは千代田城(「江戸城」)に井戸が足らず、もしくは使うことができず、朝な夕な、数千人規模での水汲み人足が隊列を組み堀外へ水汲みへ行かされていたことです。将軍さまのお城がそんな弱点を抱えていたことを、このときまで江戸庶民はまったく知らされていなかったのです。
明治元年の東京城(千代田城=江戸城)の水道設備 |
また正月行事の鏡餅を運ぶ船の大きさが、それまで言われていた「腰元(女性)が曳く小さなお舟」ではなく、普通の漁船と同じサイズであったことも、だいぶ話題に昇ったようです。およそ2年後の明治27年(1894)、「千代田城大奥」をそのまま絵草紙に変えた「千代田の大奥(楊洲周延、1838~1912年、絵師)」が刊行されます(1894~1896年にかけて40点)。
とりあえず、もと江戸庶民を呆れさせた、問題の「鏡餅曳(かがみもちひき)」を絵にてご覧ください。ちょっと色が薄いですが、お女中たちの向こうの鏡餅の大きさと数に注目です。
千代田の大奥「鏡餅曳き」 |
飲み水すら十分に確保できないくせに、徳川さまはいったい何をやってたんだ、という、庶民の呻(うめ)きが聞こえてくるようです。こうして、もと江戸庶民の心は、徳川政権への愛着の呪縛から完全に解き放たれてゆくのです。
千代田城大奥の暴露大会が続いていたさなか、歌舞伎座で「春興鏡獅子(しゅんきょう かがみじし)」が初演されました。議論に新しいネタを投入するようなもの、この演目が文化人からことさらに非難されたのは、千代田城大奥を巡る議論の真っただなかに、議論を煽(あお)るように「鏡餅曳(かがみもちひき)」を扱ったせいでもあるのです(今で言う「炎上商法」だった可能性も。。。)。
/// すべての獅子ものの原型となった、謡曲「石橋(しゃっきょう)」
地唄にしろ浄瑠璃にしろ、すべての邦楽「獅子もの」は謡曲「石橋(しゃっきょう)」が起源と言われます。
作者不詳・伝承曲「石橋(しゃっきょう)」※謡曲 |
中国の仏教寺院を訪ね歩いていた寂昭法師・大江定基は、清涼山(しょうりょうぜん、現在の中国山西省)に着き、そこにある石橋を渡ろうとしたところ、ひとりの樵(きこり)の少年に引き止められます。少年は橋の向こうは文殊菩薩の浄土であり、人が容易に渡れる橋ではないと言って、仏教修行の厳しさを説くのです。さらに、ここで待っていれば仏の奇跡の一部を見ることができるだろうと言うので待っていると、文殊菩薩の使いの獅子が生きて顕(あらわ)れ、牡丹に戯(たわむ)れて遊んだあと、文殊菩薩の乗り物である獅子の台座に戻ります。少年は文殊菩薩の化身なのでした。 [シテ]獅子 獅子団乱旋(ししとらでん)の舞楽のみぎん みぎん 牡丹の花房にほひ満ち満ち たいきんりきんの獅子頭。打てや囃(はや)せや 牡丹芳(ぼたん ほう) 牡丹芳(ぼたん ほう)。黄金の蕊(こうきんのしべ) 現れて 花に戯(たわむ)れ枝に伏し転(まろ)び。 げにも上なき獅子王の勢(いきほひ) 靡(なび)かぬ草木もなき時なれや。 万歳千秋と舞ひ納め 万歳千秋と舞ひ納めて 獅子の座にこそ直りけれ。 (現代語訳) 獅子の団乱旋(とらでん)の舞楽を舞い始めるや、牡丹の花房には匂いが充ち満ち、高く立ち昇った。すると百獣の王たる獅子は頭(こうべ)を振る。鼓を打て、歌い囃(はや)せ。牡丹うるわし、牡丹うるわし。牡丹の雌しべ雄しべが顕(あらわ)れ黄金色に光り輝くや、獅子は花に戯(たわむ)れ、枝に体をこすりつけたり、また転げまわったり。まことに、獣の中ではうわまわるものなどない獅子王に、なびかない草木は無いと思われたそのとき、獅子は「万歳千秋(世よ永遠に!)」と舞い納め、「万歳千秋(世よ永遠に!)」と舞い納め、文殊菩薩像の台座に戻ったのである。※「団乱旋」は狂乱した獅子の集団が旋回して暴れる様子を表現した唐の舞楽 |
「石橋(しゃっきょう)」物語の主人公・寂昭法師こと大江定基(おおえさだもと、962頃~1034年)」は天台宗の僧侶です。988年ごろ三河国司に任じられ、前の妻を離縁し新しい妻を伴って赴任するのですが、赴任先で女が死んでしまいます。定基は別れがたく遺体を抱いて7日すごし、腐敗したのを見てやっと女を埋葬します。そうして「恵心僧都(えしんそうず)」こと源信(げんしん、942~1017年)のもとで出家、天台宗を学び寂昭と名乗ったのです(「今昔物語集」「源平盛衰記」ほか)。
都で乞食修行(こつじきしゅぎょう)していたところ、前の妻が通りかかって定基(さだもと)に気づき「ざまあみろ」と、さんざん辱(はずかし)めます。しかし出家した定基(さだもと)は、「かえって徳を積むことが出来た」と悦(よろこ)びます(「今昔物語集」「今鏡」)。やがて1003年、源信(げんしん)の使いで宋へ渡り、天台山(広東省)で源信(げんしん)の書簡への返答を受け取るなどし、そのまま帰国することなく1034年、杭州(浙江省)で入滅しました。謡曲「石橋(しゃっきょう)」は架空の物語ですが、遺体を抱いて7日寝たこと、大勢の見ているところで前の妻に激しく罵倒されたのは事実です。
「石橋(しゃっきょう)」は仏の道に迷う旅の法師の前へ、ご褒美のように文殊菩薩がほんのひととき顕現し、仏の奇特を見せることで、これから進もうとする道が正しいと確信させてくれる、心あたたまる物語です。実話の寂昭法師の人生があまりにも哀れなため、このような物語が出来たのだろうと推察します。
ところで「石橋(しゃっきょう)」という語の意味は、庭にある「飛び石」のこと。自分から石と石のあいだを飛び、そこにない橋を伝い渡ることを仏教用語で「石橋」というようです。これは「鏡獅子(春興鏡獅子)」の歌詞の中に唄われています。
謡曲「石橋」 |
///「牡丹」「胡蝶」のもととなった、漢詩「牡丹芳(ぼたんよし)」
謡曲「石橋(しゃっきょう)」や邦楽「獅子もの」牡丹のくだりは、唐の詩人・白楽天こと、白居易(はっきょい、772~846年、あざな「楽天」で「白楽天」)作「牡丹芳(ぼたん よし=ムータン・ファン)」が原型です。とても美しい漢詩です。
「芳(ファン)」は感嘆詞のため、音にこだわって訳す場合は「ぼたんほう」と表記します。ムータン(牡丹)の立場は、、、むにゃむにゃ。
ところで「牡丹芳(ぼたん よし)」は、牡丹に熱狂する長安の人々を批判し政権におもねる内容のため、中国本土での評価はかならずしも高くありません。
白居易(772~846年)「牡丹芳(ぼたん よし、ムータン・ファン)」※漢詩 |
牡丹芳 牡丹芳 黄金蕊綻紅玉房 千片赤英霞爛爛 百枝絳點燈煌煌 (現代語訳) 牡丹うるわし 牡丹うるわし 紅い玉のような花房(はなぶさ)のなかで、黄金の蘂(しべ)がほころび 紅い霞(かすみ)が千の瑠璃(るり)のように、房なりになって爛々(らんらん)と輝く 数百の枝が、煌々(こうこう)と輝く真紅の燈明を、点々と支えているのだ --------- 戲蝶雙舞看人久 殘鶯一聲春日長 (現代語訳) やがてつがいの蝶が花に戯(たわむ)れて舞ったので 人々は飽くことなく、いつまでも眺めていた 季節を忘れた鶯(うぐいす)が一声啼けば、ますます春の日は長く、暮れてはゆかない --------- 花開花落二十日 一城之人皆若狂 (現代語訳) 花が開いて落ちるまで二十日 ひとつの城郭(長安)の人々は、一人残らずにわかに物狂いとなる --------- 減卻牡丹妖豔色 少回卿士愛花心 同似吾君憂稼穡 (現代語訳) 牡丹の花の妖しい色気を滅することができたなら 花を愛する大臣たちの心を、少しばかり迂回させることができるだろうか わが君の、種まき田植えへの憂いに近い考えに、させることができるだろうか ===おわり=== |
はい。結末、かなり微妙です。
長安(現在の西安)城壁の西門 |
///「飛騨の踊(ひんだのおどり)は面白や」の真実
長唄「春興鏡獅子」に、「飛騨の踊(ひんだのおどり)は面白や」という歌詞があります。原型曲である、長唄「枕獅子」の歌詞です。
中国から三味線が流入した早い時期、検校(けんぎょう)たちが和風にアレンジし独自の演奏法を作りました。「飛騨組(ひんだぐみ)」はそのひとつで、石村検校(生年不詳~1642年)の音曲です(「松の葉集」1703年刊行)。
「飛騨組(ひんだぐみ)」の唄はこんな感じです。
石村検校(生年不詳~1642年)、飛騨組の唄※抜粋 |
船の中には 何とお寝(よ)るぞ 苫(とま)をしき寝(ね)に 梶(かぢ)を枕に ひんだの踊りを 一踊り 一踊り (現代語訳) 船の中で寝るときには、どうして寝ましょうか。 そう聞かれれば、 苫(とま、御座のようなもの)を敷いて、梶を枕に、と答えます。 (えぇ、いいですよ、一緒に寝ましょう) ひんだの踊りをひとさし、ひとさし、舞ってお観せしましょうね。 |
そして「飛騨組(ひんだぐみ)」が「獅子もの」に組み込まれたのは、下記のような経緯です。
<1>
石村検校(生年不詳~1642年)の、「飛騨組(ひんだぐみ)」という三味線の手が大阪にあった。「飛騨組(ひんだぐみ)」の歌舞音曲は流行した。石村検校と同時代の芸能者・出雲阿国(いずもの おくに)との関係は不明。
<2>
===ここから「舞曲扇林(ぶきょくせんりん、1684~1689年ごろ)」===
初代 出雲阿国(いずもの おくに)こと「お通」は死に際して「お郡(くに)」に演目を伝承した。2代目 阿国(おくに)こと「お郡(くに)」は幼い少女たちや少年たちを集めて芸を仕込んだ。少女たちは娘歌舞伎を演じ、少年たちは若衆歌舞伎を演じた。その若衆歌舞伎は「業平おどり」と名乗り、いつの頃からか大阪を拠点にした。演目は「お郡(くに)」がお仕着せにした「十二番(12演目)」の大小狂言だった。
<3>
娘歌舞伎(女)や阿国歌舞伎(おくにかぶき、男女混合)が禁止され「お郡(くに、2代目 阿国)」が芸人を廃業したとき、「お郡(くに)」は演目を狂言師「角助」に託し、「角助」は大阪へ行って「業平おどり」名手である「日本伝助」へ伝え、「日本伝助」が歌舞伎三味線の名手である盲人の「太左衛門」へ伝え、「太左衛門」が「業平おどり」に「四番(4演目)」追加して、計「十六番(16演目)」とした。
===ここまで===
<4>
「業平おどり」の演目「飛騨の踊(ひんだのおどり)」を、初代 瀬川菊之丞(初代 瀬川路考、1693~1749年)が「英獅子乱曲(通称「枕獅子」)」など製作することで、獅子の踊りに取り込んだ。初代 瀬川菊之丞は、浄瑠璃「獅子もの」すべてに影響を与えた地唄「石橋(しゃっきょう)」も作詞・製作した。「飛騨の踊(ひんだのおどり)」は「業平おどり」11番目の演目で、2代目 阿国がお仕着せにしたもの。
*****
上月まことイラスト・出雲の阿国 |
推論ですが、「獅子ものと言えば、瀬川菊之丞」と呼び讃えられた、獅子もの作者・初代 瀬川菊之丞は「業平おどり」出身なのでしょう。そうして恐らく、文殊菩薩が庶民(農民)の日常の苦労を癒してくれる存在だと、訴えたかったのではないでしょうか。「業平おどり」や初代 瀬川菊之丞など初期の歌舞伎作者は、権力者のためでなく庶民のために唄い踊っていたのです。
ちなみに「業平おどり」は恋の歌人・在原業平(825~885)とは、いっさい関係ございません。娘歌舞伎(女)で人気だった七夕踊りが演目名「小町おどり」だったので、有名歌人つながり(小野小町に対して在原業平)で演目名を「業平おどり」と称したようです。
そうして問題の「業平おどり」11番、「飛騨(ひんだ)の踊り」がこちらです。
飛騨の踊り(業平踊り、11番)※抜粋 |
ひんだの横田の若苗を 若苗を しょんぼりしょんぼりと植ゑたもの 今くる嫁が枯らすよの 腹立ちや ひんだの踊りはおもしろや おもしろや これ迄よ (現代語訳) 飛騨の横田の若苗を、若苗を、うんざりしながら頑張って植えたものなのに、 今来た嫁が枯らしてしまい、あぁ、腹が立つったら。 (覚えがあるかい?) ひんだの踊りは愉快だな、 ひんだの踊りは愉快だな、 えいや、ここまで! |
皮肉芸です。ここまで大上段に語ったあげくの、結末がまさかの「綾●路き○まろ」さんです。我が国芸能史の重要なところなのに、傀儡師(かいらいし)たちの、おふざけが止まりません。そりゃあ、起源が一緒でも、この人たちはあと100年待とうが能楽師にはならなかったろうと感じさせます。
悲しいことを悲しく演じるより、悲しいことを愉(たの)しく演じることに熱意を注(そそ)ぐ人たちが、人形浄瑠璃や歌舞伎狂言(歌舞伎舞踊含む)を作ったのです。
それにしても、新時代の演劇改良運動(歌舞伎改良)の代表作「春興鏡獅子(しゅんきょう かがみじし)」に、もっとも古い「阿国歌舞伎」由来の歌詞が唄われていることに、ある種、感動を覚えます。
上月まことイラスト・初代 瀬川菊之丞 |
/// 長唄「春興鏡獅子(しゅんきょうかがみじし)の結末
文士には批判されたものの大人気を博した「春興鏡獅子(しゅんきょう かがみじし)」を、9代目 市川団十郎はその後2回しか演じません。それも、赤十字の慈善興業(明治29年=1896)や大阪歌舞伎座の開場記念興行(明治31年=1898)という、興行収益を期待しない興行だけです。その間、6代目 尾上菊五郎(1885~1949年)が「春興鏡獅子(しゅんきょう かがみじし)」をせっせと興行にかけて名声を勝ち取っていたのは、ご存知のとおりです。いまでは「春興鏡獅子(しゅんきょう かがみじし)」は、6代目 尾上菊五郎の演目とさえ言われます。
9代目 市川団十郎がなぜ「春興鏡獅子(しゅんきょう かがみじし)」の上演に消極的だったか、すでに多くの議論と研究がなされていますが、いまだ結論には至ってません。ここではわたしが若いころ、東京の師匠連中がもっぱら噂していたことを簡単に紹介しておきます。
*****
<1>
9代目 市川団十郎は、初演時に「小姓・弥生がかわいそうだ。このあと、どうなってしまうのだろう」と言ったそうです。
初演時は小姓仲間の大勢の若い女性が弥生を引き摺りながら舞台中央へ出て、嫌がる弥生を放置して引っ込む演出でしたが、まるで私刑か折檻のように見えるため、その後の上演では「家老」「用人」「老女」「局」が、俄(にわか)奉納の籤(くじ)に当たった弥生を引き出し、踊りながら説得する演出に変わりました。
また、絵本や映画で「鏡獅子」を扱う場合、獅子に憑依された弥生はその後意識を失い、目覚めるとまだ「鏡餅曳(かがみもちひき)」の日の朝だった、という夢オチになることが多かったように思います。
*****
<2>
成田不動尊さんに叱られたため、「鏡獅子」の「もの狂い」を演じることができない。
初代 市川団十郎(1660~1704年)の父親が千葉県成田市幡谷の出身、初代は子宝に恵まれず、成田山に祈願することでやっと男子を授かったことは有名です。そのため屋号は「成田屋」、ある年齢以上の東京人は、今でも市川団十郎を成田不動尊さんの権現(人間として一時的に顕れる神)と信じています。
*****
<3>
初演時、9代目 市川団十郎は舞台上でほんとうに獅子の精に憑依された。その後成田山にお籠もりして霊抜きしたが、体調を崩したため頻繁には演じることができなくなった。
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師匠連中が信じていたのは、だいたい<2>か<3>でした。
ところで、前の記事では書けなかったことがあります。それは、文殊菩薩は六道輪廻(りくどうりんね)の随行者であるという真実です。
文殊菩薩とグノーシス主義(1~4世紀にかけて隆盛だった思想、多くの既存宗教に影響を与えた) |
仏教はオルペウス教やキリスト教、ゾロアスター教分派ズルワーン教(ミトラ教のこと)などと同じ、「グノーシス主義」に分類される宗教です。グノーシス主義とは「神の霊の下降による、人の魂の上昇」を目的とする思想です。丁寧に説明すると「神の霊が下降して人間に同化するとき、人の魂は神の霊に導かれて昇天を果たし、天界で待っている神の本体へ融合する」と主張するものです。 神霊の下降は、人間が「この世において、自分はたんなる旅人である」ことを自覚し、神を「覚知(=グノーシス)」するときに起こります。覚知のすえに神と融合した人間は、二度とこの世に転生しません。仏教では、これを「輪廻解脱(りんねげだつ)」と呼びます。「菩薩」は人間に覚知をうながすため、この世に顕(あらわ)れる神霊のことです。 なかでも文殊菩薩は六道輪廻(りくどうりんね)の苦しみにあえぐ衆生を哀れみ、女性や子どもの姿でこの世に顕(あらわ)れては人々を教えさとし、その苦しみに寄り添ってくれる菩薩です。たとえば死にゆく子どもの前には「お地蔵さま」として顕(あらわ)れ、死に際しての苦しみを身替りに引き受けてくれると言われます。死にゆく大人の前にはその人の望む姿(たいていは女性)で顕(あらわ)れ、地獄道まで随行します(文殊菩薩はオルペウスやレムスと同じ、杖を持って黄泉路を案内してくれる「四辻の神」です)。 |
もう、おわかりですね。
文殊菩薩に救われた人には、この世の続きはないのです。
踊小姓・弥生が苦悩のなかで「この世の旅人」である自分に気がつき、憑依されることで神霊に同化したうえ、魂の上昇を果たすまでの物語は実際の歌詞でご確認いただけます。このプロットは、もともと長唄「枕獅子」において初代 瀬川菊之丞が準備したものです。
踊小姓・弥生、昇天の軌跡 |
恋に悩む(自身がこの世では旅人にすぎないと自覚)→憑依されて獅子になる(神霊と同化)→獅子が文殊菩薩の乗り物に戻る(神との融合) |
上月まことイラスト・文殊菩薩と獅子の座 |
/// 長唄「春興鏡獅子(しゅんきょう かがみじし)」註解
◆川崎音頭
長唄に取り込まれた伊勢音頭は、いわゆる「伊勢は津でもつ、津は伊勢でもつ」系の参詣端唄や巡礼端唄ではありません。もとは「間(あい)の山節」という伊勢の民謡に、伊勢近在の川崎(伊勢市河崎)の音頭=川崎音頭が混ざったものです。それを伊勢の内宮と外宮(げくう)のあいだにあった旅籠(たびかご)で遊女たちが歌い踊り、広めたようです。
直前に「伊勢海士小舟(いせあまおぶね)」と唄ってしまうため、「伊勢」の重複を避けて「川崎音頭」と言っているように見えます。原型曲・長唄「枕獅子」の歌詞にある表現です。
◆人目の関
関所で役人の目を気にするように、人目を気にして、思いどおりにできないことを表わす常套句です。
◆朧月夜や時鳥(ほととぎす)
ほととぎすは夜にも啼(な)くのですが、美声ではなく「キョキョキョキョ(クェクェ、、、とも)、、、」という、ちょっと耳障りな鳴き声です。鶯(うぐいす)とは違います。月夜の幻想を、台無しにされるイメージです。
◆半日の客(かく)たりしも
漢の明帝時代・永平五年(508)、 劉晨(りゅうしん)と阮肇(げんちょう)の二人が楮(こうぞ)を取りに天台山へ登り、道に迷って神女に助けられます。半日遊んだだけで下山したのに、下界では既に七代が経過していたという浦島太郎のような物語(短編小説集「幽明録」より、「天台神女」)です。
◆二十日草
白居易(はっきょい)の「牡丹芳(ぼたん よし)」の中で、牡丹の寿命は二十日とされています。牡丹の花は異名が多く、謡曲「石橋(しゃっきょう)」ではもうひとつの異名「深見草(ふかみぐさ)」が使われます。一方、「春興鏡獅子(しゅんきょう かがみじし)」では「二十日草」と「深見草(ふかみぐさ)」、両方の異名とさらに「牡丹」が登場します(よくばりすぎ!)。
◆科戸(しなど)の神
級長戸辺命(しなとべのみこと)の略称で、風の神さまです。
◆ます鏡
「鏡」は現世を見とおす閻魔の鏡の暗喩で、タイトルに「鏡」がある文芸作品はたいてい歴史上の有名人の人生を描いた伝記です(「大鏡」「吾妻鏡」など)。いっぽう、十寸(約30cm)ぐらいの鏡を「真澄鏡=ますかがみ」と、呼びました。ここでは「想いが増す」「人生」「化粧鏡」全部の掛詞になっています。ちなみに「感情が募(つの)る」ことを「増鏡(ますかがみ)」で掛詞にするのは、古い歌ではよくある常套句です。
嵐三右衛門、吉澤あやめ「吉田小女郎」※抜粋(「落葉集」第7巻、1624年ごろ刊行) |
恋の山 寝るに寝れず 目も合はぬ 身の狂乱は誰ゆゑぞ 問ふにつらさのます鏡 (現代語訳) 恋の山を登るため寝るに寝られず、まぶたを会わせることすらできない。この身の狂乱は誰のせいかと、問うのも辛さがます鏡。 |
原型曲・長唄「鏡獅子」の歌詞にある表現です。
◆花のをだまき 花のおだまき くりかえし
有名な「倭文(しづ)の苧環(をだまき)」というのは中心を空洞に、麻布をくるくる巻いた古文書です。「倭文(しづ)=賎(しづ)」で音が重なったせいか、和歌などでは「繰り返す」や「賎(いや)しい」という語の序詞になりました。
ここでは「繰り返す」の序詞「しづのおだまき」を、「花のおだまき」に変えてあります。「賎(いや)しい」イメージを、払拭したかったように見えます。
1186年、鎌倉へ呼び出された白拍子(遊女)・静御前(生没年不詳)が、逃亡中の愛人・源義経(1159~1189年)へ想いを馳せ、鶴岡八幡宮の大祭で歌い踊った和歌を引いています。
静御前(「吾妻鏡」) |
しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな (現代語訳) 賎しい身分のわたしですが、それでも昔が恋しく「静(しづ)や」と呼んでいただいた、あの方との日々が今ここへ戻ってきて欲しいと、願っているのでございます。 |
これを観た源頼朝(1147~1199年)は激怒します。源頼朝は朝廷のため平氏と戦った弟・源義経に幕府への反逆の疑いをかけ、討伐令を出しています。観衆の面前で、遊女ごときに意見されたからです。
静御前 |
◆獅子の座にこそ なおりけれ
獅子は文殊菩薩の台座、つまり乗り物です。ですから「獅子の座にこそなおりけれ」とは、「まさしく文殊菩薩さまの足許(あしもと)に戻った」という意味です。
/// 長唄「春興鏡獅子(しゅんきょう かがみじし)」歌詞・全現代語訳
◆あらすじ
江戸城(正式名称・千代田城)大奥の踊小姓・弥生は、「鏡餅曳(かがみもちひき)」の奉納俄(にわか)を披露する籤(くじ)に当たって怖気(おじけ)づく。上役の人々の説得で不承不承座敷中央へ出て踊りはじめるが、やがて即興の踊りに興が乗った。踊りが終わり、ほっとして祭壇に置かれた手獅子(小さな獅子頭)を持ったところ、弥生は獅子の精に憑依され、手獅子に曳かれながら座敷を飛び出してゆく。まもなく全身獅子となった弥生が戻ってくるが、心は獅子の精に乗っ取られ、胡蝶とともに激しく舞い乱れるのだった。 |
上月まことイラスト・踊小姓「弥生」 |
◆歌詞(太字が現代語訳)
<長唄「枕獅子」を改変した歌詞>
樵歌牧笛(しょうかぼくてき)の声 人間万事さまざまに
世を渡りゆく その中に 世の恋草を余所(よそ)に見て
われは下(した)萌えくむ春風に 花の東(あずま)の宮仕え
忍ぶ便りも長廊下(ながろうか) 忍ぶ便りも長廊下(ながろうか)
きこりの唄の旋律が風に乗って流れついたかと思えば、
羊を追う牧童の笛の音も、聞こえてきます。
何につけ、ひとの生き方はさまざまなものですね。
浮世を渡って生きる喧騒(けんそう)の中にあっても、
御殿勤(づと)めのわたしは人の恋路と距離をとり、
恋草が下草のように胸の中に萌えているのを感じながら、
春風にまかせ、花の東国で宮仕えをしております。
我慢しなければいけないのは、
恋しい人の便りを待ちながら寝る長い夜ではなく、
恋しい人の便りを隠して歩く、御殿の長い廊下です。
ほんとうに、ほんとうに長い廊下なのですよ。
+++
されば結ぶのそのかみや
天の浮橋(あまのうきはし)渡り染め 女神男神の二柱(ふたはしら)
恋の根笹(ねざさ)の伊勢海士小舟(いせあまおぶね) 川崎音頭口々に
男と女を結ぶという神、
天の浮橋(あまのうきはし、国産神話の最初の段)を渡りそめた、
伊邪那美命(いざなみ)さまと、伊邪那岐命(いざなぎ)さま。
女神男神(めがみおがみ)、
二柱(ふたはしら)の神がお創りになった恋の道です。
小舟(こぶね)に乗った伊勢の海女が唄いはじめ、
根笹(ねざさ)が土中にじわっと広がるように、
世の中に知れ渡った川崎音頭(伊勢音頭のこと)では、
こんな風に唄われています。
+++
人の心の花の露 濡れにぞ濡れし鬢水(びんみず)の
はたち鬘(かつら)の 堅意地(かたいじ)も
道理 御殿の勤めぢゃと 人にうたはれ
結い立ての 櫛の歯にまでかけられし
平元結(ひらもとゆい)の高髷(たかまげ)も
痒(かゆ)いところへ平打ちの とどかぬ人につながれて
人目の関の別れ坂
人の心の涙は、花の露のようなもの。
櫛に水をつけ、鬢(びん)のほつれ毛をしっかり梳(す)いて。
はたちになるかならぬかという若さでも、固く意地をつらぬいて。
そりゃ道理、御殿勤めはそういうものじゃろうと、
他人に面白く歌いはやされ、
結い立ての髪の櫛の先まで噂にされる(櫛の歯=口の歯)、
御殿女中のわたしです。
お勤めのため平元結(平たい紙で結んだまとめ髪)の髪を、
高髷(たかまげ、高島田のこと)に結い上げています。
かゆいところに手が届くような、
よく気がつく優しい男に添いたいけれど、
そうでもない男と縁を結んだせいで、
平打ち簪(かんざし)で頭を掻くようにもどかしい思いです。
まるで関所にいるかのように、
人目を気にして、離れて暮らしているのです。
+++
春は花見に 心うつりて山里の
谷の川音 雨とのみ聞こえて 松の風
実(げ)に過(あやま)って半日の客(かく)たりしも 今 身の上に白雲の
その折(おり)過ぎて 花も散り 青葉茂るや夏木立
飛騨の踊(ひんだのおどり)は面白や
春には花見に参りましょう。
山里にすっかり心を奪われているところへ、ふいに谷の川音が響き、
雨が来るかと思っていると、松を吹き抜けるただの風の音でした。
実際に松風に騙され、半日山の神の客人となっただけで、
下山してみると白雲のような白髪の老人になった例もあるのです。
そんな春の盛りの時期が過ぎて花が散ってしまうと、夏木立に青葉が茂ります。
飛騨の踊(ひんだのおどり)は風流ですね。
+++
早乙女(さおとめ)がござれば 苗代水(なわしろみず)や 五月雨(さつきあめ)
初(はつ)の人にも馴染むは お茶よ ほんにさ
うらみかこつもな 実(じつ)からしんぞ
気にあたらうとは 夢々(ゆめゆめ)知らなんだ
見るたびたびや聞くたびに
憎(にく)てらしほど可愛(かあ)ゆさの
朧月夜(おぼろづきよ)や時鳥(ほととぎす)
田植えの乙女がござれば、水を湛(たた)えた苗代(なわしろ)に、
春めいた五月雨(さつきあめ)が降り注(そそ)ぎます。
初めて会う方に馴染んでいただくには、茶事を催すのが良いですよ。
ええ、ほんとうに。
怨(うら)み言を言いつのるのは、心が本気の証拠です。
気に障ったのならごめんなさい、お気に障るとは夢にも思わないことでした。
逢えば逢うほど、お手紙を頂戴すれば頂戴するほど、
我ながらどうしてここまでと、憎らしくなるほど恋しさが募(つの)ったせいでした。
穏やかな朧月夜(おぼろづきよ)に、時鳥(ほととぎす)がうるさく啼き喚いていますね。
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時しも今は牡丹の花の 咲くや乱れて 散るは散るは
散り来るは 散り来るは
散り来るは ちりちり ちりちり ちりちり
散りかかるようで おもしろうて寝られぬ
花見てあかそ 花には憂(う)さをも打ち忘れ
折りしも今は牡丹の花が咲き乱れる時期、咲いたとたんに咲き乱れ、
今にも散り始めそうで、
今にも散り始めそうで、
ちりちり、ちり散り始めそうに見えて、あぁ、おもしろくて夜も寝られません。
花を見ながら夜明かししましょう。花を見れば、つらいことを忘れます。
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咲き乱れたる 風に香(か)のある花の波
きつれてつれて 顔は紅白薄紅(こうはく うすべに)さいて
見するは見するは 丁度二十日草(はつかぐさ)
牡丹に戯(たわむ)れ 獅子の曲
花が咲き乱れ、花の香おりが風に乗って、波のように吹き寄せます。
ほら、花の化身の花笠衆がやって来ました。
花の顔々は紅白に、薄紅色に染まっていますね。
二十日でお別れの花を見続け、ちょうど二十日目。
どうして? 牡丹に戯(たわむ)れる、獅子の音曲が聞こえてきました。
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実(げ)に石橋(しゃっきょう)の有様は
その面(おもて)わづかにして 苔(こけ)滑らかに谷深く
下は泥犂(ないり、地獄・奈落のこと)も白浪(しらなみ)の
音は嵐に響き合い 笙歌(しょうか)の花降り
簫笛琴箜篌(しょうちゃくきんくご) 夕日の雲に聞こゆべき
目前の奇特(きとく)あらたなり
そこへ突然出現した石橋(しゃっきょう)は、
深い谷に架かかった、巾の狭い(約3cm)苔むした橋でした。
下は奈落の底のように見える白い波のうずまく急流で、
さざ波の音が風の嵐と響き合い、
笙歌(しょうが)の声が、散る花のように谷川に降るところです。
おや。竪琴(たてごと)、笛、琴、箜篌(くご、竪琴に似た弦楽器)の音色(ねいろ)が、
夕日の雲に音曲を聞かせようと、天空を目指し、また谷底から飛翔してゆきますよ。
目の前に展開される奇跡の数々は、仏の世界が確かに存在すると証明するものです。
上月まことイラスト・長唄「鏡獅子」胡蝶 |
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<長唄「鏡獅子」をほぼそのまま取り込んだ歌詞>
※「胡蝶」ここから
世の中に 絶えて花香(はなか)のなかりせば 我はいづくに宿るべき
浮世も知らで草に寝て 花に遊びて
あしたには 露を情けの袖まくら
羽色(はいろ)にまがふ物とては われにゆかりの深見草(ふかみぐさ、牡丹のこと)
花のをだまき 花のをだまき くり返し
風に柳の結ぶや糸の ふかぬその間(ま)が命ぢゃものを
憎(にく)やつれなや そのあじさへも
わすれかねつつ飛び交(こ)ふ中を
そつとそよいで隔(へだ)つるは 科戸(しなど)の神のねたみかや
世の中に花の香おりというものがなかったならば、
蝶であるわたしは、どこに宿をとって休めば良いのでしょう。
浮世の苦しみを知ることもなく草の上に寝て、花に遊び、
翌朝にはまた、愛する男とそうするように、
情愛の露を袖枕に寝るのが、蝶というものなのです。
わたしの羽の色と見まがうものなんて、
わたしと深いゆかりのある、深見草(ふかみぐさ=牡丹)しかありません。
だから花が咲くたび、しづのおだまきのように、
くるくると、繰り返し花を追うのです。
蝶は、風に恋をした柳が運命の糸をたぐり寄せ、
契りを結んで草木を芽吹かせるまでの、
そのほんの短いあいだの命ですのに。
花の味わいを忘れられず、
名残(なごり)を惜しんで飛び交っているだけなのに。
そっとそよいでわたしたちを引き離すとは、
風の神さまは、花と蝶との関係を妬んでらっしゃるものでしょうか。
+++
よしや吉野の花よりわれは 羽風(はかぜ)にこぼす 白粉(おしろい)の
その面影(おもかげ)のいとしさに いとど思ひは ます鏡(かがみ)
うつる心や 紫の色に出(い)でたか 恥ずかしながら
待つにかひなき松風の 花に薪(たきぎ)を吹き添へて
雪をはこぶか朧(おぼろ)げの われも迷ふや 花の影
暫(しば)し 木影(こかげ)に休らひぬ
吉野の花から飛び立つわたしは、羽風(はかぜ)を立てては、
白粉(おしろい)のような花の花粉を散りこぼします。
あとにはその花粉の面影(おもかげ)を思い出し、花恋しさが増すばかり。
恋にうつろう心が色になって出たのか、
秋になると、わたしの羽は牡丹のような紫色になりました。
そう思って恥じ入りながら待っていても、
秋に咲いた紫の花のあとには、ただ松風が吹くばかりです。
風にそなえて花に添え木をするように、
花木の傍(そば)に薪(たきぎ)が積み上げられるころには、
かすかな雪が風に運ばれてやってくるのだけれど、
その雪が花影に見えるため、
わたしはまた迷いの道へと、踏み込んでしまいそうで、
だからほんの少しのあいだ、木陰に羽を休めたのです。
※「胡蝶」ここまで
+++
それ清涼山(せいりょうざん)の石橋(しゃっきょう)は 人の渡せる橋ならず
法(のり)の功徳(くどく)に おのづから 出現なしたる橋なれば
石橋(しゃっきょう)とこそ名付(なづけ)たり
暫(しばら)く 待たせ給へや
影向(ようごう)の時節も 今いくほどによも過ぎじ
いま いくほどによも過ぎじ
牡丹の花に舞い遊ぶ 葉影(はかげ)にやすむ蝶の 風に翼かはして 飛びめぐる
獅子は勇んでくるくる くると
文殊菩薩さまのおっしゃるには、
これ、清涼山(せいりょうざん)の石橋(しゃっきょう)は、
人が渡れる橋ではないぞよ、と。
三宝(さんぽう、仏・法・僧)の功徳(くどく)を伝えるため、自然と出現した橋だから、
まさに「石橋(しゃっきょう=元の意味は「飛び石」、飛ぶ石)」とばかり、名づけたのだ。
しばらくお待ちなさい、
神仏の降臨と邂逅(かいこう)の時は、
今から幾(いく)ほどもかからず実現し、すぐに終わってしまうからと。
すると牡丹の花に舞い遊び、いままで葉影(はかげ)で羽を休めていた蝶が、
また風に乗り、舞い上がって飛び巡(まわ)ります。
気づくとそこに獅子が顕(あらわ)れ、
勇み足でくるくる、くるくる廻っているではないですか。
+++
花に戯(たわむ)れ 枝に伏し転(まろ)び
実(げ)にも 上なき獅子王の勢(いきお)ひ
ししの座にこそ なをりけれ
そうして花に戯(たわむ)れ、
枝に身体(からだ)をこすりつけたと思えば、次には伏して転げまわって。
まこと百獣の王と讃(たた)えられる、獅子王の勢いと言うもの。
やがて舞い納めると文殊菩薩像さまの足許(あしもと)へ戻り、
台座に還(かえ)った獅子なのでした。
上月まことイラスト・獅子の精 |
「枕獅子」由来の前段は踊小姓・弥生が主人公の弥生目線、長唄「鏡獅子」由来の後段は蝶が主人公で蝶目線です。
前段の終わりまぢか手獅子を手にして獅子の精に憑依され、しばらく蝶に見とれるなどの小芝居があったあと、意思を持ったような手獅子に曳かれ小走りに花道を引っ込むくだりは、何度観ても心が躍ります。そのあとは「毛ぶり」と呼ばれる獅子の振りがたっぷり。いまさら言うまでもないことですが、迫力があって見ごたえのある、素晴らしい演目です。
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上月まこと
本文・イラストともに上月まこと。一部パブリックドメインの写真や絵画を利用しています。Copyright ©2019- KOUDUKI Makoto All Rights Reserved. |
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