2020年1月9日木曜日

桂離宮に春が来た~「青海波(せいがいは)」という舞楽


Bugaku Seigaiha : 上月まこと画、舞楽「青海波」のタイトルイラスト





 ///「教訓抄」と舞楽「青海波」 

舞楽「青海波(せいがいは)」は、序破急の「破」として同「輪台(りんだい)(序)に続いて上演されます。舞楽「輪台(りんだい)」は4人舞、左方(さほう)・唐楽・盤渉調(ばんしきちょう)です。

「青海波(せいがいは)」は紫式部(生没年不詳、平安中期の女流作家)作「源氏物語」紅葉賀(もみじのが)に登場することで有名です。ですが、その成立経緯については、少しばかり説明が必要です。雅楽について誰もが一度は参考にするであろう、狛 近真(こま ちかざね)著「教訓抄(きょうくんしょう、鎌倉時代)」は、こんな感じです。

狛 近真(こま ちかざね、1177~1242年)著、雅楽指南書「教訓抄(1233年成立、鎌倉時代)

(原文)
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輪台
序四返 拍子十六
謂輪台




破七返 拍子各十二
謂青海波也
大唐楽云々。作者酒樽(※本当は「酉」へん)之云。ツマヒラカナラズ。可尋。古老伝云。輪台国名也。其国人。蒼海波ノ衣ヲ着シテ。舞タリシユヘニ。ヤカテ付其国之名云々。

青海波龍宮楽也。昔天竺彼舞儀。青波浪上ニウカム。浪下ニ楽ノ音アリ。羅路波羅門聞之。伝云。漢帝都見之伝舞曲云々。

(現代語訳)
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「輪台(りんだい)」について

序で四辺、拍子が十六いわゆる「輪台(りんだい)」、破で七辺、拍子は各十二いわゆる「青海波(せいがいは)」。

偉大なる唐の楽舞ではないかと云々(うんぬん)されている。
作者は酒樽(しゅそん?※本当は「酉」へん)と言うが、つまびらかではない。追って詳しく調べるべし。
古老の伝えるに「輪台(りんだい)は国名だ。その国の人は蒼い海の波の衣装を着て舞っていたので、やがてそれが国名になった」と。
などと云々(うんぬん)されている。

青海波は龍宮の楽舞だ。
昔天竺(インド)でこれが舞われていたとの由(よし)。青波が水流の上に浮かぶと、水流の下から音楽が聞こえたそうだ。
羅国(新羅もしくは多羅国)へ向かう途中、バラモン僧正がこれを聞いた。
バラモン僧正の言い伝えるに「漢帝の都でこの舞を見て舞曲を伝えた」と。
などと云々(うんぬん)されている。

ただただ、言い伝えを羅列しています。一行空けてふたつの段落にまとめてあり、最初の段落は立証可能な事実の伝承で、かつ作者自身が重要だと思っている説を載せ、あとの段落は立証不可能な物語的伝承、作者自身「まゆつば」と感じる伝説を載せているようです。

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事実の伝承
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(1)唐楽がもと
(2)さだかでないが、作者は「酒樽(しゅそん?※本当は「酉」へん)
(3)輪台は国名

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伝説の伝承
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(1)竜宮の楽舞
(2)インドで演じられた、水上の舞人と水下の楽(音)とのコンビネーション
(3)バラモン僧正が羅国(新羅もしくは多羅国)へ向かう途中に発見した
(4)バラモン僧正が漢の都で聞いて伝承した


「輪台(りんだい)」という国は実際に、現在の新疆ウイグル自治区バインゴリン・モンゴル自治州「輪台県(プグル)」にありました。ウィグル人はトルコ系です。同地にはかつて亀茲楽(くじがく、クチャがく)という音楽があり、唐が定めた雅楽「宴饗楽(十部伎とも言う)」のひとつでした。

Bugaku Rindai an old picture : (伝承絵)舞楽「輪台」
舞楽「輪台(りんだい)」

ところで蒼い海の波の衣装を着て舞う人々の国の国名が、その舞の名前からついたのであればその国名は「輪台」ではなく、「青海波」になるのじゃないかとツッコミたいところ。この説明の「国」を「地域」の意味と捉えれば、ここでは、いわゆる「青海地域(チンハイ)」の語源を説明しているとも解釈できます。しかしウィグルの輪台県とモンゴル・チベットの青海地域は、少しばかり離れています。輪台=青海地域ではありません。
※青海地域は「青海省(チンハイシェン)」とも一致しません。

いっぽう「輪台」は現代では「花の台」を意味する言葉です。そこでこの「輪台」が、もとはすべからく「台の上で輪になること=舞台」を指すと解釈すると、ほとんどの問題は解決します。その場合「古老伝云。輪台国名也。其国人。蒼海波ノ衣ヲ着シテ。舞タリシユヘニ。ヤカテ付其国之名云々」という一文は「古老の伝えるに輪台(りんだい)は国名だ。その国の人は蒼い海の波の衣装を着て舞っていたので、やがて台の上で輪になって舞うことが国名になった」と読めるのです。




 ///「原中最秘抄」と舞楽「青海波」 

「教訓抄(きょうくんしょう)」とは逆に、伝説の物語性を追求して記録したのが源親行(みなもとの ちかゆき、1185~1333年)ほか著「原中最秘抄(げんちゅうさいひしょう、1364年成立、南北朝時代)」です。成立年代は少し後年ですが、書かれたのは同じ鎌倉時代です。

源親行(みなもとの ちかゆき、1185~1242年)ほか著、源氏物語注釈書「原中最秘抄(1364年成立、南北朝時代)

輪台青海波は、娑羅門僧正渡朝之時、悪風によりて輪台国に吹きよせらる。始めて此舞をみる。彼国の伶人舞輪台之後、龍神二人浮海上。いはほを冠とし、剣をはき、大海浦を装束として、青海波舞云々。

(現代語訳)
輪台青海波という舞楽についてだが、バラモン僧正が来朝のため海を渡ったとき、悪風のせいで輪台国に吹き寄せられ、そこで初めてこの舞を見た。かの国の楽士が輪台を舞ったあと、龍神二人が海上に浮かび上がると、岩を冠として剣(つるぎ)をはき、大海原(おおうなばら)を装束に青海波(せいがいは)を舞った、などと云々(うんぬん)されている。

こちらではバラモン僧正こと菩提僊那(ぼだいせんな、奈良時代の736年に来朝)がまさに大和国へ向かう途中、運命に導かれるように風に吹かれて輪台国へ立ち寄り、輪台の楽士が舞ったあと海上に浮かび上がって青海波(せいがいは)を舞う、巨大な龍神を目にしたことになっています。

龍神というのは、池や沼に棲む大きな鯉が年を取ってまず小さな竜に変身し、のち龍に変身すると高く飛翔して沼から湖、湖から海へと棲家を変えながらさらに成長してゆくものです。そして最後に龍神になると、海原から天界へ昇って消えてゆくのです(昇天)。「昇龍」と言い、たいへんおめでたい、アジア全域の言い伝えです。移動中の若い龍は青龍などの色付きで、昇龍は白銀か金に光り輝いています。「青海波(せいがいは)」という舞の謂(いわ)れを記録しているのですから、岩を冠に海原を装束に舞った龍神はもちろん、「青海湖(チンハイフー)」の青龍でしょう。
※「青海湖(チンハイフー)」は青海省(チンハイシェン)にあります。

横山大観画「龍興而致雲(りゅうおこりてくもいたる)」
横山大観画「龍興而致雲(りゅうおこりてくもいたる)」

「教訓抄」と「原中最秘抄(げんちゅうさいひしょう)」をまとめると、舞楽「輪台(りんだい)」「青海波(せいがいは)」は、輪になって舞う亀茲(くじ)の人々と、それを寿(ことほ)ぐように東の空高くへ立ち昇る青龍と、その足元に広がる蒼く広大な湖のさまを描いた、おめでたい舞楽と解釈できます。「教訓抄」の言う「龍宮」は現代のわたしたちが思い浮かべる乙姫さまの「竜宮城」ではなく、ただ「龍の宮=龍の棲家(すみか)」であって、「青海湖(チンハイフー)」の蒼い海を指すのでしょう。いにしえの青海地域(ウィグル、モンゴル、チベットの地)は、亀茲国(=輪台国)とひとつの文化圏を構成していたのだろうと推察します。

異論反論、大歓迎です。詳しい方、ご教授ください!




 /// 舞楽「青海波」概要 

舞楽「輪台」「青海波」は、勅命により何度か改調しています。まずは仁明天皇(810~850年)の御世(在位834~851年)、笛の楽士・大戸清上(おおとの きよかみ、生年不詳~839年)が、自分の弟子らを率(ひき)いて曲を全部書き換えています。


■作曲■
大戸清上(おおとの きよかみ、生年不詳~839年)
※平安時代初期の楽士

常世乙魚(つねよの おとうお、生没年不詳)
※大戸清上(おおとの きよかみ)の笛の弟子


■振付
良岺安世(よしみねの やすよ、785~830年)
※桓武天皇(737~806年)の皇子


■改調
邇部大田麿(わにべの おおたまろ、798~865年)が平調(ひょうじょう)から盤渉調(ばんしきちょう)へ改変。
※仁明天皇の承和(834~848)の時代、大戸清上(おおとの きよかみ)の笛の弟子

現在は黄鐘調(おうしきちょう)で演奏されています。


■分類
左方(さほう)・唐楽・黄鐘調(おうしきちょう)
※盤渉調(ばんしきちょう)も残ってます


■番舞(つがいまい)
舞楽「敷手(しきて)
右方(うほう)・高麗楽・壱越調(いちこつちょう)


平調(ひょうじょう)作曲者・大戸清上(おおとの きよかみ)は、皇別・王孫とされながら実質は渡来系氏族であった大戸氏のため、雅楽「宴饗楽(十部伎とも言う)」や、そのひとつ亀茲楽(くじがく)に詳しかった可能性があります。

また、振付の良岺安世(よしみねの やすよ)は皇子ですが、生母(女官)が渡来人の子孫・百済永継(くだらの ながつぐ、生没年不詳)だったため親王になれず臣籍降下しています。こちらも、唐の雅楽「宴饗楽」に詳しかった可能性があります。

Bugaku Seigaiha an old picture : (伝承絵)舞楽「青海波」
舞楽「青海波」

「原中最秘抄(げんちゅうさいひしょう)」が記載した伝説・バラモン僧正「菩提僊那(ぼだいせんな)」が舞楽「輪台(りんだい)」「青海波(せいがいは)」を伝えたという歴史上の記録は、いまのところ見つかっていません。「酒樽(しゅそん?※本当は「酉」へん)」という作者の曲は、大戸清上(おおとの きよかみ)らによって全面的に書き換えられています。そういう意味では、舞楽「輪台青海波(りんだい せいがいは)」は、唐の雅楽「宴饗楽」を参考に作られた、わが国独自の演目と言ってさしつかえないように思います。




 ///「青海波」の詠唱歌詞考察 

舞楽「輪台(りんだい)」と「青海波(せいがいは)」は、あまり上演されません。それは笙・篳篥(ひちりき)・竜笛(りゅうてき)・琵琶を持った楽士4人のほか、「反鼻 (へんぴ) 」という桴 (ばち) を持って後ろに並ぶ、「垣代 (かいしろ) 」と呼ばれる応援団が20人~40人も必要になるからです。いにしえの時代、宮中で催される場合は大臣など含め殿上人(てんじょうびと)総出で舞台に上がり、垣代 (かいしろ) 役を手伝ったようです。

演目の流れとしては、まずは「輪台(りんだい)」をゆっくり演奏(延輪台=えんりんだい)しながら舞台を周る道行(みちゆき)があり(大輪=おおわ)、当曲で「輪台(りんだい)」を演奏(早輪台)、次に「青海波(せいがいは)」を演奏し、そのあとにはまた「輪台(りんだい)」をゆっくり演奏(延輪台)しながら舞台を降りてゆきます。かつて当曲には「詠(えい)」や「唱歌 (しょうが) 」が入りました。残念なことに発声の伝承が途絶えたため実際どのように演じられたかわかっておらず、現在は演じられません。

(えい)も唱歌(しょうが)も何種類かが記録されていますが、もっとも有名なのは仁明天皇の御世(みよ)の、小野 篁(おのの たかむら、802~853年)作の詠(えい)です(「教訓抄」など)。「源氏物語」紅葉賀(もみじのが)で光源氏が詠(えい)じた歌は、この小野 篁(おのの たかむら)作品とみなされています《藤原定家「奥入(源氏物語奥入)」1233年ごろ成立、など》

藤原定家(1162~1241年)著、最古の源氏物語註解「奥入(別名「源氏物語奥入」1233年成立、鎌倉時代)

(原文)
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桂殿迎初歳
桐棲媚早年
剪花梅樹下
蝶燕盡梁邊

(現代語訳)
香木で造られた美しい御殿に、新しい年がやってきた
切妻屋根に、かわいらしい若者たちが見てとれる
剪定された梅の花の下あたり
華やかだが移り気な蝶(女性)と、鋭敏ながら忠義心に篤い燕(男性)
ともに仲良く、梁(はり)の上にいっぱい描かれているのだ

一行目「桂殿」は、御殿「桂別業(京都市西京区、現在の桂離宮)」を指していると思われます。「桂別業(桂離宮)」のある桂川西岸の地は平安時代には別荘地で、貴族が別邸をもうけ遊女など呼び大騒ぎしました。

編者不詳「河海抄(かかいしょう、南北朝時代の将軍・足利義詮の命により1362~1367年ころ成立、源氏物語注釈書)に記録された小野 篁(おのの たかむら)作「青海波(せいがいは)」詠唱詞も、『奥入』と同じです。

藤原師長(ふじわらの もろなが、1138~1192年、公卿)著「仁智要録(じんちようろく、1177年以降に成立、箏譜集)」では小野 篁(おのの たかむら)作「青海波(せいがいは)」詠唱詞は「桂殿迎初歳 相棲媚早年 剪花梅樹下 蝶燕畫梁邊」です。藤原定家「奥入」と一字違いですが、意味するところはほぼ同じです。

ちょっとおもしろいと感じるのが、細川幽斎(ほそかわ ゆうさい)こと細川藤孝(ほそかわ ふじたか、1534~1610年、武将)が生涯をかけて書いた源氏物語注釈書、兼、源氏物語写本「幽斎源氏物語聞書(安土桃山時代)」です。何を思ったのか、漢詩にルビがふってあります。

細川幽斎(ほそかわ ゆうさい、1534~1610年、武将)著、源氏物語注釈書兼源氏物語写本「幽斎源氏物語聞書(安土桃山時代)

ケイ テン カウ ショ サイ  (訳) 香木で造られた美しい御殿に、新しい年がやってきた
殿

ワ  リ  ヒ  サウ ネン  (訳) 桐の楼閣に集まった、かわいらしい若者たち

セン クワ ハイ シュ 下   (訳) 剪定された梅の花の下あたり

テウ エン シリ ヤウ ヘン  (訳) (女性)と燕(男性)が仲良く、梁(はり)の上にいっぱい描かれている


最初は「漢詩の読みを詠(えい)と間違えている?」とも思ったのですが、微妙に中国語を取り込んでいるようにも見えるので、今では「室町時代には、このように詠(えい)じていたかもしれない」と、思うようになりました。

Bugaku Seigaiha an old picture : (伝承絵)舞楽「青海波」
舞楽「青海波」

実は、大御所「教訓抄(きょうくんしょう、鎌倉時代)」にも謎のルビがふってあります。同書では「小野 篁(おのの たかむら)作(「野田説」とあるのが小野 篁)」と紹介しながら、漢詩そのままでは音に合わなかったか、貞観(じょうがん)年間(855~877年、清和天皇・陽成天皇)に改変されたものを記載しているのか、詠唱詞の一部が違います。しかもたいへん複雑な構成です。

狛近真(こま ちかざね、1177~1242年)著、雅楽指南書「教訓抄(1233年成立、鎌倉時代)

ケイ  テン  ゲイ  セ   セイ       (訳) 香木で造られた美しい御殿に、新しい年がやってきた


殿







 


ライ  ライ  ミ   ライ  ライ  ミ    (訳) ああ来た、来た













セム  ア   ロ   キ   クワ       (訳) 葦の水辺の社(やしろ)に、義に篤い若者たちが集まった










 


テイ  クワン トシ               (訳) 貞観(じょうがん)の御世(みよ)






 

 

 


セイ  カ   キ   カイ  カ        (訳) 剪定された梅の花の下あたり










 


ライ  ライ  ミ   ライ  ライ  ミ    (訳) ああ来た、来た













チョウ エン  ショ  リベラ レトリ      (訳) (女性)と燕(男性)が仲良く、梁(はり)の上にいっぱい描かれている










 



上記の歌詞は人間が唄う「詠(えい)」と、吹奏が応える「音取(ねとり)」で構成されており、さらに途中「唱歌 (しょうが、声歌) 」という、謎の発声が入ります。「知夜利乙太打反尾(知夜利乙太打反緒、とも読める「チヤリオタウタン?」)」などと記述されています。

光源氏は舞楽「青海波(せいがいは)」を舞い、詠(えい)を披露して「これや、仏の御迦陵頻伽(おんかりょうびんが)の声ならむ=まさしくこれが、極楽浄土で歌う鳥・迦陵頻伽(かりょうびんが)さまの美声に違いない」と、人々を感動させたことになっています。聞いても何を語っているのやら、よくわからないような歌い方だったのかなぁ、などと、シニカルに推察しております。

Karavinka : 上月まこと画、極楽鳥「迦陵頻伽」
上月まことイラスト・極楽鳥「迦陵頻伽」




 /// 舞楽「青海波」詠作者・小野 篁と能「船弁慶」

邦楽の歴史上、ここでもうひとつ特筆すべきは小野 篁(おのの たかむら)という人物です。小野 篁(おのの たかむら)は飛鳥時代の遣隋使・小野妹人(おのの いもこ、生没年不詳)の後裔(こうえい)で、小野小町(おのの こまち、生没年不詳、平安前期の美人歌人)の祖父にあたり、漢詩の天才として名をはせた平安時代の公卿かつ歌人です。「読めない漢文はない」と豪語するその不遜さに業を煮やした嵯峨天皇(786~842年)が「「子子子子子子子子子子子子」」という文章を読めと命じ、小野 篁(おのの たかむら)が「猫の子の子猫、獅子の子の子獅子」と読んでいなしたエピソードが有名です《「宇治拾遺物語(鎌倉時代初期)」》

小野 篁(おのの たかむら)自身は遣唐使に立ちながら二度渡海に失敗、三度目の要請を拒否して遣唐使批判の詩を書き隠岐国(おきのくに、現在の島根県)へ配流(838年12月)されています。しかし文才を理由にすぐさま許され政界復帰(840年)、順当に出世を重ね51歳・従三位・参議で病没しました。配流(はいる)の身からの見事な復活劇が有名になり、「悪霊退散」の権化(ごんげ)として各地に神社まで建てられました(東京・小野照崎神社など)。菅原道真が政界復帰できなかったことと比較すれば、小野 篁(おのの たかむら)の優秀さがしのばれます。

邦楽史において重要なのは、能「船弁慶」の原型となった幸若舞(こうわかまい)「四国落(しこくおち)」において、武蔵坊弁慶が「自分は悪霊退散の権化(ごんげ)・小野 篁(おのの たかむら)の子孫だ。平 知盛(たいらの とももり)の幽霊なんて退けてみせる!」と、言挙(ことあ)げすることです。

もちろん武蔵坊弁慶は出自のあやしい破戒僧です。わたしの知るかぎり幸若舞(こうわかまい)以外、武蔵坊弁慶が小野 篁(おのの たかむら)の子孫である設定を引き継ぐ演目はありません。ところが能「船弁慶」や同名長唄では、白拍子・静御前が「立舞うべくもあらぬ身の」と、「源氏物語」紅葉賀(もみじのが)の和歌をひきながら舞い踊るのです。そこには何の説明もありません。

Nou Funabenkei an old photograph : (歴史的写真)能「船弁慶」
能「船弁慶」




 ///「源氏物語」紅葉賀(もみじのが) 

◆あらすじ
義理の息子である光源氏(ひかるげんじ)との罪の子を宿した藤壺の宮の苦悩も知らず、桐壺帝は藤壺ら女性皇族のため、光源氏と頭中将(とうのちゅうじょう、光源氏の親友)に宮中で舞楽「青海波(せいがいは)」の予行演習を行わせます。罪の意識におののく藤壺の宮は密通の日以来、光源氏を避けていましたが、その舞のあまりの美しさに驚き呆れ、翌朝届いた源氏の手紙に、ふと返事をしたためます。

紫式部(生没年不詳、平安時代中期の歌人)作「源氏物語」紅葉賀(もみじのが)の巻

-光源氏が藤壺の宮へ贈った歌-
もの思ふに立ち舞ふべくもあらぬ身の 袖うち振りし 心知りきや
(現代語訳)
あなたへの恋の想いに悩んだあまり立ち舞うことなど到底できそうにないこの身が、あなたのためこころを振り絞り、袖を打ち振って青海波(せいがいは)を舞いました。わたしのこころを、お察しくださったことでしょうか。

-藤壺の宮が光源氏へ返した歌-
から人の袖ふることは遠けれど 起(た)ち居(ゐ)につけて 哀れとは見き
(現代語訳)
唐の人が袖を振って踊ったのは遠い昔のことですが、昨日(さくじつ)わたくしは、此方(こなた)さまの立ち上がる動作、座(すわ)る動作、すべてにつけて優美なことだと、深く感動しながら拝見もうしあげました。

Genjimonogatari Fujitsubo : 上月まこと画、光源氏に返歌する藤壺中宮
上月まことイラスト・光源氏に歌を返す藤壺中宮

「龍宮の舞」と言われながら、舞楽「青海波(せいがいは)」の身振りや吹奏には「女波(めなみ)」「男波(おなみ)」などの名前がつけられています。もしかしたら「源氏物語」こそがすべての起源なのかもしれません。いつの頃からか邦楽では、「女波(めなみ)」「男波(おなみ)」が性愛と恋の暗喩になりました。

作者不明「釣舟踊」※松落葉集(1704年刊行)

沖に漕がるる女舟を見たか
おっと舵を枕に櫓櫂(ろかい)をさ
立つる立つる 立つる立つる 波立つる立つる
女波(めなみ)寄すれば 男波(おなみ)も寄する
とかく男波はやよいこ こいここ こいここ
今宵はどち枕

[現代語訳]
沖を漕いでる女舟を見たか。
おっと、舵を枕に櫓櫂(ろかい)を繰り出すかい。
立つ立つ、立つ立つ、波が立つ立つ、
女波(めなみ)が寄せれば、男波(おなみ)も寄せる。
そうして男の波ってやつは、やれ行く、いや来い、と性急に。
今宵はどこの枕で寝るのやら。


初代 篠田金治こと2代目 並木五瓶作、長唄「越後獅子(1811年)」※抜粋

打寄する 打寄する 女波男波(めなみおなみ)の絶間なく、
逆巻水(さかまくみず)の面白や 面白や
晒す細布(ほそぬの) 手にくるくると、くるくると、
いざや帰らん おのが住家(すみか)

[現代語訳]
打ち寄せる、打ち寄せる、恋の女波男波(めなみおなみ)が絶え間なく。
打ち寄せる波が逆巻(さかま)いて、風流に、風流に。
細布(ほそぬの)を水に晒したところ、
打ち寄せる波のせいで手にくるくると、くるくると、
小車(おぐるま)の縁が、水車のようにまとわりついて。
少年が言う。さぁ、帰ろう。
俺たちの、帰るべきところへ、と。

「青海波(せいがいは)」は「女波(めなみ)」と「男波(おなみ)」が差し引きする舞踏です。「青い海の波」と名づけられていますが、ほんとうは男と女の愛のいとなみを描く、色っぽい舞なのです。
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Bugaku Seigaiha : 上月まこと画、舞楽「青海波」
上月まことイラスト・舞楽「青海波」


実際、演出の流れは「酔っ払いが大人数でわいわいしているなか、かたそで脱ぎの若者が二人前へ出てきて、恋の舞を舞う」ように見えます。小野 篁(おのの たかむら)作の詠唱詞も、若者が集まって楽しんでいる様子が唄われています。

ところで、性愛の暗喩「女波(めなみ)」「男波(おなみ)」と青い昇(のぼ)り龍のモチーフは、まったく矛盾していません。「青龍」は、もともと生命誕生の象徴なのです青=東=誕生の方角

「いにしえの時代、輪台国の人々が輪になって舞うと、しばらくして青龍が立ち昇った」という伝説自体がもう、男女の性愛とその後の子孫繁栄を象徴しています。最初からおめでたい演目だったのだろうと、思っています

異論反論、大歓迎です!
(今年もよろしく、お願いします)

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上月まこと

本文・イラストともに上月まこと。一部パブリックドメインの写真や絵画を利用しています。Copyright ©2019- KOUDUKI Makoto All Rights Reserved.




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