2020年1月3日金曜日

大地をかつぱと蹈み ならし~「野守」という謡曲


Nou Nomori : 上月まこと画、謡曲「野守」タイトルイラスト





 /// 謡曲「野守」概要 


■作者(作詞作曲)
世阿弥(1363~1463年ごろ)

■季節


■分類
五番目もの・鬼物



簡単に説明すると、「野守」は「地獄の浄玻璃鏡」と見たいとしつこく切願する法師に、地獄の鬼が根負けしてちょっとだけ見せてくれ、すぐさま地を割って帰ってゆく物語です。ただそれだけ。たいへんシンプルです。

そのシンプルさが、むやみやたらにおもしろい謡曲です。


Nou Nomori an old picture: (伝承絵)謡曲「野守」
能「野守」の鬼神




 /// 浄玻璃鏡の持ち主「閻魔さま」考察 

いっぱんに地獄の判事「閻魔大王(閻魔さま)」の起源はヒンドゥー教の世界体(せかいたい)・「ヤマ神」と言われます。「世界体(せかいたい)」というのは文化人類学的に言う「原初の人(略して「原人」)」もしくは「原初の牛(白い牛)」で、世界の始まりに犠牲として解体され、天や地や穀物のもとになる体のことです。たとえば大仏さま(ピルシャナ仏)も、もとは「リグ・ヴェーダ」の「プルシャスの章」で解体され、人間や穀物のもととなった世界体(せかいたい)です。古代の人々は生命の仕組みがわからなかったので、すべての生命に先立つ、「優位な生命」が少なくともひとつあったと信じていたのです。

ちなみに「原牛」は「原人」のトーテム獣です。たとえばギリシア神話の至高神「ゼウス」、ローマ名「ユピテル」は、もとはリグ・ヴェーダに登場する「ディアウス・ピター」という原初の白い牛神です。「ディアウス」が「ゼウス」の語源、「ウス・ピター」が「ジュピター」の語源です。ゼウス神はときどき美しい白牛に化けて、女性をかどわかします。

インド・ヨーロッパ語族の世界体(せかいたい)は、滅びのときに再度顕(あらわ)れて解体されます。つまり、一度は完成した世界が、粉々になって消えうせることを意味しています。そして世界が無に還ると、すぐさま再び原初の人・原初の牛が顕(あらわ)れるのです。インド・ヨーロッパ語族の終末論は「終わりと始まり」の永遠の輪舞(ロンド)です。死後の審判のようなものは存在しません。
※「死」は「生の始まり」にすぎません

そのため文化人類学的には、閻魔大王の起源が「ヤマ神」であるとは言えません。語源的には、おそらく「ヤマ神」がもとと言って良いでしょう。

死後の審判が描かれるのは、「人生は一度きり」と信じるセム語族系の宗教です。文化人類学的には、地獄の審判・閻魔大王の原型はセム語族系宗教の冥界の判事「アヌンナキ(至高神アヌの別相)」とみなされています。ギリシア神話にも「死後審判の神・ハデス」が登場しますが、ハデスはディオニュソス・バッコスの別相で、そもそもディオニュソス・バッコスはシリア(セム語族)からの流入神、「アヌンナキ」の派生形です。

Book of the dead in Egypt an old picture: (伝承絵)エジプト「死者の書」
古代エジプト「死者の書」オシリス神による死後の審問


セム語族のアラブと、インド・ヨーロッパ語族のインド・イランの歴史

紀元5世紀ごろまでに、セム語族(アラブ系)とインド・ヨーロッパ語族(インド・イラン系)は、ほぼ一体となって活動していた時期があります。たとえば前5世紀ごろに滅んだエラム(現在のイランの地)はシュメール・アッカド(セム語族、現在のイラクの地)との長い紛争で民族の融合が進んでいます。国を失ったエラム人は遊牧民となり、国を求めて世界にさまよい出しました。

また、出身地域はあきらかでないものの、セム語族・アラブ系とインド・ヨーロッパ語族・イラン系の集合体だった謎の傭兵集団・アラン族はフン族に襲撃されてアジア系フン族の一部となり、ゲルマン系・東西ゴート族を襲ったあげく同じく民族移動中のゲルマン系・ヴァンダル族と結んでローマ帝国へ迫りました。このアラン族からフン族貴族・エデコ(ゲルマン系といわれる)が生まれ、エデコは使者として東ローマ帝国を訪れると、しばらく同地にとどまります。フン族出身の奴隷貴族で軍人のエデコは、西ローマ帝国を滅ぼした傭兵隊長オドアケルの父です。
※フン族貴族エデコと東ローマの奴隷貴族エデコは別人という意見もあります

イスラム教が勃興するとアラブ地域とアラブ隣接の一部イランはイスラム教で統一されますが、シーア派の発生により、おもにイラク近辺(スンニー派)からイラン(シーア派)へアラブ人の大量移住が始まります。するとイランにいたゾロアスター教徒や仏教徒は、押し出されるようにインドへ移住しました。


この歴史のどこかで、ヴェーダの「ヤマ神」がシュメール・アッカド神話「アヌンナキ」と同じ「地獄の判事」になり、叙事詩「ラーマーヤナ」では地底の従者(獄卒)を連れて登場することになったのだろうと、推察します。

死者の生前をすべて映し出すという閻魔大王の「浄玻璃の鏡」は、シュメール・アッカド神話、バビロニア神話、エジプト神話などに登場する、至高神だけが読むことができるという「天命の書版(死者の書)」と同じものです。

世界史で学ぶ、民族大移動の復習でした。。。長くてすみません。

Referee after death an old picture: (伝承絵)閻魔大王による「死後の審問」
閻魔さまによる死後の審問





 /// 謡曲「野守」あらすじと歌詞(抜粋) 

世阿弥(1363~1463年ごろ)作「野守」


山伏が旅の途中で大和国春日の里を通りかかると、向こうから野守の老人がやってきた。老人に土地の名所を尋ねるうち目の前にある沼の話になるが、老人は「野守の姿が朝夕と映るので野守の鏡と呼ばれるが、本当の野守の鏡は古来、このあたりを守っていた鬼が持っている」と答える。やがて夜になり、野守の鬼が鏡を持って山伏の前に顕(あらわ)れる。

[シテ]鬼と、[地謡]の掛け合い
天を映せば、
非想非々想天まで隈なく。
さて又大地をかがみ見れば、
まづ地獄道、
まづは地獄のありさまを現わす。一面八丈の浄玻璃(じょうはり)の鏡となつて。罪の軽重罪人の呵責、打つや鉄杖の数々、悉(ことごと)く見えたり。さてこそ鬼神に横道を正す、明鏡の宝なれ。すはや地獄に帰るぞとて。大地をかつぱと蹈みならし、大地をかつぱと蹈破つて、奈落の底にぞ入りにける。
現代語訳
天を映せば三界の最頂部・兜率天(とそつてん)まで隙間なく映し出し、
次に大地を見ようとすれば、
まずは地獄道を、
まずは地獄道のありさまを映し出す。
一面が八丈(24メートル)ほどの浄玻璃の鏡(じょうはりのかがみ、地獄にある鏡)となって、罪が軽いか重いか、罪人にそのとき呵責の念(かしゃくのねん)があったかどうか。鉄杖を打つや、すべてがことごとく映し出され、それを見る鬼神が道を正すことになる。仏の教えの「明鏡(みょうきょう)の宝」と同様のものだ。説明が終わるとさて、急いで地獄へ帰るぞと。大地をかっぱと踏み鳴らし、大地をかっぱと踏み破って、鬼は奈落の底へと戻って行った。


Nou Nomori : 上月まこと画、謡曲「野守」
上月まことイラスト・能「野守」浄玻璃の鏡を見せる鬼神


仏教における閻魔さまの教えは、古代宗教の集合体です。ところで、日本の絵画や能面の「鬼」の描写なのですが、個人的にイラン系のお年寄りの顔に似ていると感じます。「野守」で使う能面も、イランのおじいさんによく似ていますね。というか、そっくりなイラン人のおじいさんを知ってます。

古い時代の日本にはたくさんのイラン系の高僧が荒波を乗り越え、艱難辛苦を乗り越えて来朝してくれました。彼らが持ち込んだ地獄や獄卒のイメージが、わが国の絵画や文化に影響を与えたかもしれません。

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上月まこと

本文・イラストともに上月まこと。一部パブリックドメインの写真や絵画を利用しています。Copyright ©2019- KOUDUKI Makoto All Rights Reserved.




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