2020年12月19日土曜日

あぁ、猿だらけ。~山王の、桜に猿がさんくだり。長唄「猿舞」という踊り(全訳)


Kabuki Sukeroku Danjuurou 7th : 歌川豊国画「7代目目玉団十郎」タイトルイラスト





 /// 長唄「猿舞」概略 

■本名題■
三升猿曲舞(しかくばしら さるのくせまい)

■初演■
7代目 市川団十郎(1791~1859年)、文政2年(1819)11月、江戸・河原崎座

■作曲■
4代目 杵屋六三郎(1779~1856年)

■作詞
2代目 瀬川如皐(せがわじょこう、1757~1833年)

■振付
3代目 藤間勘兵衛(生年不詳~1822年)



長唄「三升猿曲舞(しかくばしら さるのくせまい)」は文政2年11月18日江戸・河原崎座で初演された「奴江戸花鎗(やっこやっこ えどのはなやり)」という興行の一部で、(一番目)六立て目の演目です。好評を受けてその後、独立した踊り・長唄「猿舞」(本名題「三升猿曲舞」)になるのですが、初演時の歌詞とその後の歌詞には微妙な違いがあるのです。

昭和8(1933)年刊行「日本戯曲全集」第47巻(春陽堂)のおかげで、初演時の歌詞も残っています。とても面白い内容だと思いますので、後年の長唄「猿舞」歌詞といっしょに紹介させていただきます。

ところで、歌詞の大部分は室町時代の小歌と三味線組歌のうち最古典「飛騨組」の小歌から構成されており、前後に意味のつながらない部分があります。そのため、歌詞だけ見れば「長唄」というより、「長歌(小歌をつなげたもの)」に近い仕上がりです。江戸後期に作られた比較的近代の演目ですが、江戸初期の三味線組歌や女歌舞伎の雰囲気を再現しようとした、意欲作のようです。

(伝承絵)長唄「三升猿曲舞」初演時の番附
長唄「三升猿曲舞(さんかくばしら さるのくせまい)」初演時の番附


「三升猿曲舞(しかくばしら さるのくせまい)」の主役は歌舞伎狂言上の羽柴秀吉こと「眞柴久吉(ましばひさよし)」、初演時は7代目 市川団十郎(1791~1859年)が演じました。興行「奴江戸花鎗(やっこやっこ えどのはなやり)」は太閤記ものの集大成=コンセプト上演で、女五右衛門(傾城・石川屋の真砂路)が登場し「楼門五三桐(さんもんごさんのきり)」を演じたり(一番目五立て目)、眞柴秀吉が奴踊り(一番目六立て目、三升猿曲舞)を踊ったり、「三木合戦」の別所小三郎重清(役名・別所長治小三郎)が登場し、犬と狐が争うのを仲裁したりします(二番目演目)。初演当時、犬と狐の闘いは人気のテーマでした。猿(眞柴久吉)やら犬(犬神のしもべ・大内義隆)やら狐(小女郎狐)やら。ふう。。。




 /// 長唄「猿舞(さるまい)」と長唄「三升猿曲舞(しかくばしらさるのくせまい)」の註解 


◆水の月取る猿澤(さるざわ)
猿沢池(さるざわいけ)は奈良県春日山のふもとにある池で、この池を中国の仏書『摩訶僧祇律(まかそうぎりつ)』記載の、「500匹の猿が手をつないで木からぶら下がり、池の月影を盗ろうとした」故事の舞台に見立てている。※「猿猴捉月(えんこうそくげつ)」 

◆さす手引く手の末広や
踊りの手振りのこと。指したり引いたり、手を広げたりして踊ること。

◆止観(しかん)の窓
月見障子や、月見デザインの道具など。
仏教では「止」は集中した結果心が静かになること、「観」はその心で対象をするどく観察し、来し方行く方へ思いを馳せることを言い、禅宗などでは「止観座禅(しかんざぜん)」が推奨される。月見障子などはこの境地を意匠化したもの。

◆片割れ月
半分欠けた月。

◆可愛い可愛いとさよへ<長唄「猿舞」のみ>
「さよへ」は「さ夜更けて」の略で、「夜更けまで」という意味。

◆おもたげなく
思いなやんだ様子もなく。

◆およる
(男性が)寝る、眠ること。

◆奴島田(やっこしまだ)に丈長(たけなが)かけて
丈長(たけなが)は「丈長奉書(たけながほうしょ)」の略。
丈長奉書(たけながほうしょ、和紙の名前)や杉原紙(すぎはらがみ、和紙の名前)などを畳み、元結の上から飾りとして結ぶために使った。平元結(ひらもとゆい)などとも呼ぶ。奴島田(やっこしまだ)は未婚女性の髪形のひとつ。

◆品(しな)やる
「女郎がしなを作る」と「木槍(毛槍、花槍)の先がしなる」とを掛けた言葉。

◆巻き端折り(まきばしょり)<長唄「三升猿曲舞」のみ>
着物の裾をからげて巻き上げること。

◆投げ草履<長唄「猿舞」のみ>
供奴(ともやっこ=お供する下人)が草履を差し出す方法のひとつで、主人が履きやすいように、ちょっと投げてその足許(あしもと)へ滑り込ませるわざ。

◆仇者(あだもの)<長唄「猿舞」のみ>
にくい奴。

◆馬場先(ばばさき)<長唄「猿舞」のみ>
馬場で馬を乗りとめる場所。馬場先(ばばさき)とか、馬場末(ばばすえ)などと言う。

◆色めく飾りの伊達道具<長唄「猿舞」のみ>
奴行列で奴が持つ「木槍(きやり)」には、槍の先に毛ぶり(毛槍)や花(花槍)が付いていた。

◆昔模様の派手奴
裾をからげた腰巻姿に深編み笠、派手な模様の上着というのだから、元禄頃に流行った「武士が遊郭を訪れる際の腰巻丹前姿」のことだが、文政2年には「昔風」と見えるらしい。ちなみに元禄ごろ流行した着物の模様は縫箔(ぬいはく)で、「伊達(だて)模様」と呼ばれた。

(伝承絵)月岡芳年画「丹前姿」
月岡芳年画「丹前姿」武士の夜遊びスタイル


◆鎌わぬ=鎌輪奴(かまわぬ)
7代目が考案した、市川団十郎の役者紋。

◆山王の桜に猿が三くだり<長唄「三升猿曲舞」のみ>
江戸時代に流行った地口狂歌(駄洒落狂歌)で、元は「山王の 桜に三猿 三下がり 合の手と手と 手手と手と手」、テトテトテテトテトテは三味線の音色(=三味線譜)。要するに、この猿は桜の下で、調子(キー)を「三下(さん さ)がり」に合わせた三味線に乗って踊っている。「猿廻し」の猿のこと。

◆鞠(まり)の庭にも猿の神
藤原成通(ふじわらなりみち、公卿、歌人、1197~1162年)の「成通卿口伝日記(なりみちきょう くでんにっき)」に記述された、蹴鞠(けまり)の庭で猿の神と出会った物語。蹴鞠(けまり)の達人であった藤原成通が出会ったそれは、顔は人間、手足は猿、人間で言えば三・四歳ぐらいに見える童子形の三柱(さんはしら)で、それぞれ額に金色の文字で「春楊花(しゅんようか)」「夏安林(げあんりん)」「秋園(しゅうえん)」という名が記(しる)されていた。猿の鞠神は「蹴鞠(けまり)の庭にいるとき人は邪念がない。だから蹴鞠(けまり)を好む世は太平で、その人々は功徳を積み来世もまた幸せになれる」と、藤原成通に伝えた。<『群書類従』第19輯・蹴鞠部巻354、『古今著聞集』巻第11蹴鞠第17>

◆馬瀝神(ばれきしん)
平安時代、十干十二支(じゅっかん じゅうにし)の庚申(かのえさる=こうしん)の日には寝てはいけないという、道教の呪術「庚申待ち」が流行した。この「庚申待ち」は仏教化すると「庚申尊(こうしんそん)」という民間仏信仰になって僧侶によって広められ、さらに日吉山王信仰(ひえさんのうしんこう)と習合し「見ざる・言わざる・聞かざる」の三猿信仰まで発展する。また「庚申尊(こうしんそん)」が猿に化けて馬を助けてくれる伝説(天竺から猿が飛んできて馬を助ける伝説)が捏造され、厩(うまや)の守り神として猿の骨などを飾る風習が全国的に定着した。庚申(かのえさる、こうしん)の日のシンボルにすぎない「庚申尊(こうしんそん)」が馬のため化けるのが「馬瀝神(ばれきしん)」で、「馬瀝神(ばれきしん)」の下降を祈願し猿を用いて定期的な祈祷を行うのが「猿廻し」の本業だった。馬を操る武士たちが猿廻しを「めでたい」と喜んだのは、「馬瀝神(ばれきしん)信仰」があったから。

◆猿と獅子とは文殊の侍宿(じしゅく)
侍宿(じしゅく)は侍の待機所であり、同時にそこで待機する侍たちのこと。
三猿信仰「見ざる・言わざる・聞かざる」は「猿知恵」として知られ、寺社仏閣の壁の飾りになった。各経典の元となったジャータカ(本生物語)では「猿知恵」は浅知恵のことで悪い意味だが、「馬瀝神(ばれきしん)信仰」と知恵をつかさどる文殊菩薩の「三人寄れば文殊の知恵」の諺(ことわざ)が混同され、日本では良い意味に変わってしまった。そのため古い日本の考えでは、獅子は文殊菩薩の台座として仏に奉仕し、猿は猿知恵(見ざる、言わざる、聞かざる)を民衆に見せることで仏に奉仕する仏弟子で、猿と獅子はどちらも同じ「文殊菩薩の従者」と信じられた。

「猿知恵」-園林を猿が荒らしたはなし-(ジャータカ=本生物語、南方上座部「経蔵」上部経典)

ブッダは過去世を話された。

ブラフマダッタ王の治世、バラナシで大きな祭があった。王の園林を管理していた園丁も太鼓の音に落ち着かなくなり、祭に出るため園にたくさんいる猿たちに若木の水遣りを頼んだ。猿たちはこころよく引き受け、熱心に仕事をこなしたが、途中で猿の頭目が「水がもったいないから、若木をいったん土から引き出し根の深さを確認してから、正しい量の水を注ごう」と言ったので、皆それに従って若木を引き抜きながら水遣りをした。そこへ賢者が通りかかり、猿の頭目を叱って言うには「善意であってもためになるとは決まっていない」「無知の者は利益を失うものなのだ」と。根を引き抜かれた若木は枯れた。

このときの賢者は、わたしの前生である、と。


◆花の富貴(ふうき)の色見えて
牡丹の花は別名「富貴花(ふうきばな)」、冬牡丹は市川団十郎の家紋の花。

(伝承絵)歌川豊国画「七代目 目玉団十郎」
歌川豊国画「七代目 目玉団十郎」





 /// 初演時の長唄「三升猿曲舞」浄瑠璃歌詞(全訳) 

小田館の奥御殿に眞柴久吉(羽柴秀吉)の前の主人の妻だという老女が闖入し、小田家(織田家)の中間(ちゅうげん)になった久吉を返せと言う。久吉は小田家で軍師として働いていたが、久吉の出世をこころよく思わない小田家譜代の老臣らの手前、一時的に身分を中間(しもべ、奴)に落とされていた。

老女の訴えを受け、小田春永(織田信長)は金の蒔絵で飾った貝(袷貝の盃)を差し出すが、老女は「こんなピカピカなもの、お大名さまは奢(おご)ったことを」と言って放り出した。春永はそれを見ると、「女子は自分を愛でる者のために容色を磨く、こころざしのある男は自分を理解してくれる者のために死ぬ」と言い、年季証文を抱えて来た老女の訴えをしりぞけた。

しかし老女は春永の言葉が理解できない。久吉は貝盃を拾うと古主である老女に解説しようとし、春永から「猿面の猿冠者が、また差し出た真似を」と叱られる。そこでまわりの重臣が、「いつものように猿真似の舞で主人を慰めろ」と久吉に言い、久吉が舞い始めると中間仲間もいつものように、久吉を妬(ねた)んで舞を囃(はや)し立てた。

※太字は原文、細字は現代語訳
2代目 瀬川如皐(1757~1833年)作、長唄「三升猿曲舞(しかくばしら さるのくせまい)
頼うだ人のお前にて さらば一(ひと)さし舞はうよ
  そうであれば、奉公申し上げる主(しゅ)さまの御前(おんまえ)にて、
ひとさし舞わせていただきましょう。
猿が参りて こなたの御知行(ごちぎょう) まさる目出度き能 仕(つかまつ)
  こうやって猿めが参りまして、こなたさまのご知行の地へ、
すぐれてめでたい能を、献上させていただくわけで。
水の月取る猿澤(さるざわ)の 池の漣(さざなみ)ゆうゆうたり さす手引く手の末広や
  この滑稽な猿めが、愚かにも水面(みなも)の月を盗ろうとする猿沢(さるざわ)の、池の漣(さざなみ)は水量ゆたかに、ゆうゆうと。その流れに身をまかせるように、猿めもこうして、指したり引いたり手を末広に広げたり、たのしく舞わせていただきまする。
月に譬(たと)えし止観(しかん)の窓
  月にたとえた月見障子の、こころを清める止観の窓。
こなたのお庭を見上(あ)ぐれば 片割れ月は宵のほど
  こちらのお庭から見上げてみれば、半分かけた月が水平線近くに、大きく浮かんでおりました。
松の葉越しの月見れば
[中間仲間・直平]「出て見よ 出て見よ、月を見よ」
[中間仲間・峯平]「そっと出て見よ、またまた月を」
  何を待つともなく、松の葉越しにその月を見ていたのですが、
[中間仲間・直平]「出て見よ、出て見よ、月を見よ」
[中間仲間・峯平]「そっと出て見よ、またまたその月を」
(しば)し曇りて又 冴ゆる
  少しのあいだ曇ったかと思えば、またすぐ冴える月の影。
あすは出(で)ようずもの 船が出(で)ようずもの おもたげなく およるきみよの
  明日にはきっと出航できますね、船はきっと、出てくれますね。
それにしても、お前さまは思い悩む風もなく、よくそんなにぐっすり眠っていられるものだわ。
船の中にはなにと およるぞ 苫を敷き寝の楫枕(かじまくら)
  さて、船の中ではどうやって寝ればよいのやら。
そう聞かれれば、「苫(とま=ござのようなもの)を敷いて、楫(かじ)を枕に」と答えます。えェ、いいですよ、船ではいっしょに寝ましょうね。
晩の泊まりは御油(ごゆ)赤坂に 吉田通れば二階から招く しかも鹿の子の振袖が
奴島田にたけなが(丈長=髪飾り)かけて 先のがしなやる 振り込めさ
[久吉]「奴のこのこ 奴らさ 奴鰻(やっこうなぎ)のぬらくらと どこまであがる奴凧(やっこだこ)
  晩の泊まりは御油宿か赤坂宿(ともに愛知県豊川市)のはずが、吉田宿(愛知県豊橋市)を通ったところで女郎屋の二階から誘われてしまい。
しかも鹿の子絞りで飾りたてた、色っぽい振袖が目の前をひらひらと。
奴島田に丈長(たけなが)を結んだいい女が、その振袖の先をしなしなさせながら。
だからこちらも木槍(きやり)の先のしなったやつを、えいや女に振り込んでしまえ、とばかりに。
[久吉]「奴がのこのこヤッコラサ、奴鰻(やっこうなぎ)はぬらくらと。それ、どこまでも揚がれ、奴凧(やっこだこ)」。
春の日蔭のうらうらと 廓(さと)の柳の露霜(つゆしも)踏んで
深編笠(ふかあみがさ)にまき端折(ばしを)り きやつが元へと 忍ぶ身は
  人目を避け、春の日影をうらうらと。廓(くるわ)の柳の下に隠れ、そっと露霜(つゆしも)を踏んで歩きながら。深編み笠に巻き端折(ばしょ)りで、あいつのところへ忍んでゆくこの身は、まるで。
[久吉]「奴の床<ヤットコ>を右に見て 衣紋を結ぶ奴髭(やっこひげ)<旗本奴の代表「志賀仁右衛門」>
[中間仲間・直平]「奴豆腐(やっこどうふ)に振りかけた」
[中間仲間・峯平]「七色奴唐辛子(なないろやっこ たうがらし)
[中間仲間・両人]「からい目見せてくれべいか<米菓「奴あられ」など>
  [久吉]「ヤットコで結んだ、仁右衛門(にえもん)の奴髭(やっこひげ)
[中間仲間・直平]「それを奴豆腐(やっこどうふ)に振りかけた」
[中間仲間・峯兵]「七色奴唐辛子(なないろやっこ とうがらし)を振りかけた」
[中間仲間・両人]「からい目見せてみ、とっても小粒な奴アラレ」
昔模様の派手奴 これ鎌(かま)わぬ<構わぬ=鎌輪奴>の始めなり
  この昔風の縫箔(ぬいはく)模様、腰巻丹前姿の派手な奴が「鎌輪奴(かまわぬ)」柄のはじまりなのだ。
さらば引かせん 山王の 桜に猿が三くだり 手に手 手に手 の合いの手や
  引かれたならば、こちらも引くぞ、山王祭の車曳き。
桜の下にて三猿が、三下がりで唄い踊れば手に手、手に手と、合いの手がかかる。
鞠の庭(には)にも猿の神 厩(うまや)の猿の馬暦神(ばれきしん)
  蹴鞠(けまり)の庭(競技場)には猿神(さるがみ)さまが降臨し、
(うまや)の馬は猿の馬暦神(ばれきしん)さまが、お守りになる。
猿と獅子とは文殊の侍宿(じしゅく)
  猿も立派な仏のお弟子、猿と獅子とは文殊菩薩のさむらい同士。
時しも開く 冬牡丹
  ごらんあれ、季節が変わり、今まさしく冬牡丹が咲くところ。
花の富貴(ふうき)の色見えて 栄ゆる御代とぞ祝しける
  富貴(ふうき)の色に照り映えるこの牡丹の花は、主(しゅ)さまの御代(みよ)の栄えを祝う、まことに、おめでたい花なのでございますよ。

(伝承絵)狂言「靫猿(うつぼざる)」
狂言「靫猿(うつぼざる)」




 /// 長唄「猿舞」浄瑠璃歌詞(全訳) 


※太字は原文、細字は現代語訳
2代目 瀬川如皐(1757~1833年)作、長唄「猿舞(さるまい)
ハァ 猿が参りて こなたの御知行(ごちぎょう) ま猿(さる)目出度き能 仕(つかまつ)
  こうやって猿めが参りまして、こなたさまのご知行の地へ、
すぐれてめでたい能を、献上させていただくわけで。
水の月取る猿澤(さるざわ)の 池の漣(さざなみ)ゆうゆうたり 指手引手(さすてひくて)の末広や
  この滑稽な猿めが、愚かにも水面(みなも)の月を盗ろうとする猿沢(さるざわ)の、池の漣(さざなみ)は水量ゆたかに、ゆうゆうと。その流れに身をまかせるように、猿めもこうして、指したり引いたり手を末広に広げたり、たのしく舞わせていただきまする。
月にたとへし 止観(しかん)の窓
  月にたとえた月見障子の、こころを清める止観の窓。
此方(こなた)のお庭を見上(あ)ぐれば 片われ月は宵の程
  こちらのお庭から見上げてみれば、半分かけた月が水平線近く、大きく浮かんでおりました。
可愛い可愛いとさよへ だまして置いて
  可愛い可愛いと夜更けまで足止めしておいて、これはいったいどういうこと?
だまされたのね。
松の葉越しの月見れば (しば)し曇りて又 冴ゆる
  何を待つともなく、松の葉越しにその月を見ていたところ、まるでわたしのこころのように、少しのあいだ曇ったかと思えば、またすぐ冴える月の影。
あすは出(で)ようずもの 船が出(で)ようずもの おもたげなく およるきみよの
  明日にはきっと出航できますね、船はきっと、出てくれますね。
それにしても、お前さまは思い悩む風もなく、よくそんなにぐっすり眠っていられるものだわ。
船の中にはなにと およるぞ 苫を敷き寝の楫枕(かじまくら)
  さて、船の中ではどうやって寝ればよいのやら。
そう聞かれれば、「苫(とま=ござのようなもの)を敷いて、楫(かじ)を枕に」と答えます。えェ、いいですよ、船ではいっしょに寝ましょうね。
晩の泊まりは御油(ごゆ)赤坂に 吉田通ればナァ 二階から招く しかも鹿の子の振袖が
奴島田にたけなが(丈長=髪飾り)かけて さきのが品やる 振込めさ
  晩の泊まりは御油宿か赤坂宿(ともに愛知県豊川市)のはずが、吉田宿(愛知県豊橋市)を通ったところで女郎屋の二階から誘われてしまい。
しかも鹿の子絞りで飾りたてた、色っぽい振袖が目の前をひらひらと。
奴島田に丈長(たけなが)を結んだいい女が、その振袖の先をしなしなさせながら。
だからこちらも木槍(きやり)の先のしなったやつを、えいや女に振り込んでしまえ、とばかりに。
手際見事に投草履(なげぞうり)
ありやんりやりや こりやんりやりや 粋(すい)な目元に転(ころ)りとせ
  手際みごとに投げ草履をし遂(と)げるこの俺さまが、
ありゃんりゃりゃ、こりゃんりゃりゃ。あの女の、粋な目元にころりと騙され。
仇者(あだもの)め 留(と)めてとまらぬ恋の道
  憎くて可愛い、あの女。かように、留(と)められても、とまらないのが恋の道。
馬場先のきやれ(のきゃれ) 色めく飾りの伊達道具
  そこの馬留(うまど)め、馬どけやがれ。
恋の色香にどっぷり染まった、俺の毛槍(けやり)のお通りだ!
昔模様の派手奴 是(これ)(かま)わぬ<構わぬ=鎌輪奴>の始めなり
  この昔風の縫箔(ぬいはく)模様、腰巻丹前姿の派手な奴が「鎌輪奴(かまわぬ)」柄のはじまりなのだ。
鞠の庭(には)にも猿の神 厩(うまや)の猿の馬暦神(ばれきしん)
  蹴鞠(けまり)の庭(競技場)には猿神(さるがみ)さまが降臨し、
(うまや)の馬は猿の馬暦神(ばれきしん)さまが、お守りになる。
猿と獅子とは文殊の侍宿(じしゅく)
  猿も立派な仏のお弟子、猿と獅子とは文殊菩薩のさむらい同士。
時しも開く 冬牡丹
  ごらんあれ、季節が変わり、今まさしく冬牡丹が咲くところ。
花の富貴の色見えて 栄ゆる御代とぞ祝しける
  富貴(ふうき)の色に照り映えるこの牡丹の花は、主(しゅ)さまの御代(みよ)の栄えを祝う、まことに、おめでたい花なのでございますよ。



(伝承絵)長唄「三升猿曲舞」初演時の番附
長唄「三升猿曲舞(さんかくばしら さるのくせまい)」初演時の番附



※長唄「猿舞」は長唄「元禄花見踊」に取り込まれたので、同長唄の解説でも「猿舞」の注解をしています。下記ページでごらんください。
→長唄「元禄花見踊」の歌詞を解析してみた!(別ページが開きます)



歌詞に取り込まれている小歌は、狂言「靱猿(うつぼざる)」や同「猿若(さるわか)」にも登場する、お馴染みの小歌たちです。その「小歌集(=長歌)」を、現代語に変えてざっくり読んでみたくなり、長唄「猿舞」を全訳しました。よろしければ。

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上月まこと

本文・イラストともに上月まこと。一部パブリックドメインの写真や絵画を利用しています。Copyright ©2020- KOUDUKI Makoto All Rights Reserved.




2020年12月5日土曜日

いやが上野の花盛り~江戸幕府追善・彰義隊挽歌として。長唄「元禄花見踊」という踊り


Kabuki Genrokuhanamiodori dancing samuri: 上月まこと画、長唄「元禄花見踊」タイトルイラスト





 /// 長唄「元禄花見踊」概要 


■初演■
明治11年(1878)6月、東京・新富座で初演された群舞(「惣踊」)です。

■本名題(ほんなだい)
「牡丹蝶扇彩(ぼたんにちょう おうぎのいろどり)
=======
上の段「石橋(しゃっきょう)
下の段「元禄踊(げんろくおどり)
※下の段がのち、本名題「元禄風花見踊」になりました。

■作曲■
3代目 杵屋正次郎(きねやしょうじろう、1827~1896年)

■作詞
竹柴瓢助(たけしばひょうすけ)

■振付
初代 花柳寿輔(はなやぎじゅすけ、1821~1903年)


(伝承絵)新富座のオープン記念で踊られる「元禄花見踊
明治11年6月刊行『新富座評判記』


長唄「元禄花見踊」は、「牡丹蝶扇彩(ぼたんにちょう おうぎのいろどり)」という舞踊劇の一部です。

初演は東京・新富座の開業式で、この日は歌舞伎狂言なし、能がかりの「三番叟(さんばそう)」に続いて演じられました。「新富座評判記」によると、下記のような内容です。

永志田福太郎(生没年不詳)「新富座評判記」(1878年6月刊行)

相中上分(あいちゆうかみぶん)惣出(さうで)にて 古代模様の衣装(きつけ)男女 思ひ思ひの様立(いでたち)にて 元禄年間の風俗を模(うつ)せし手踊り 追々(おひおひ)幕内(まくうち)へ繰(くり)こむと 楽屋ばやしとなって 條幕(さんまく)をまたあげると華(花)舞たい 出囃子紅白牡丹の造りもの 台を左右におしだし 団十郎 菊五郎 左団次 の三人 石橋獅子(しゃっきやうじし)の 舞ひ畢(おは)って目出度(めでたく)打出し 六時間なり。

(現代語訳)
役者の身分(名題、相中、中通り、下位役、子役、色子)を問わない総出で、古い模様をつけた男女が思い思いの出で立ち、元禄時代の風俗を模した手踊りだ。踊りながら次々に幕内(まくうち)へ繰り込んでゆくと、舞台上は楽屋囃子(がくやばやし)だけになり、そのあと定式幕(じょうしきまく)をまた上げると花舞台になっていて、紅白牡丹を飾った台を左右に押し出し、団十郎、菊五郎、左団児が、「石橋(しゃっきょう)」の獅子を舞う。これが終わって目出度く完了、全演目で六時間だった。

別の記録によると、「破風舞台で三番叟(団十郎の翁、菊五郎の三番叟、左団次の千歳)が出たあと横断幕が断ち切られ、両花道から役者がわらわらと現われると元禄風の丹前踊(たんぜんおどり)を踊りながら、みんな上手(かみて)へ繰り込んだ。すると突然ガス燈の明かりが点じられ、観客をおおいに驚かせる。ここで初めて幕があがり、ふたたび能がかりで石橋が演じられた」と、なっています<「明治演劇史」早稲田大学出版、1933年>。このときの「石橋」は謡曲「石橋」の終盤だけを取り出した内容で、現在は「新石橋(しんしゃっきょう)」と呼ばれています。

なお「牡丹蝶扇彩(ぼたんにちょう おうぎのいろどり)」の上の段が「石橋(新石橋)」、下の段が「元禄踊(元禄花見踊)」ですが、昔の感覚では「上」は「上等」の意味らしく、演目としては後から出てくるようです。

(伝承絵)國政画「東京嶋原新富座新狂言」
國政画「東京嶋原新富座新狂言」

歌詞のなかに「元禄」らしいものはまったく見当たりませんが、「かまわぬ=鎌輪奴」という7代目市川団十郎(1791~1859)考案の判じ物(役者柄)と、日本舞踊流派「志賀山流」が登場します。

実は「初代 市川団十郎(1660~1704年)」は元禄年間の活躍です。初代 市川団十郎はそれまで小歌・長歌・若衆踊(新発意芸=しんぽちげい)の延長だった江戸歌舞伎界に、「荒事(あらごと)」の芸をもたらしました。これをもって野郎歌舞伎の型が完成し、江戸歌舞伎界は新時代の幕開けを迎えたわけです。また、「志賀山流」は元禄年間の創設で、歌舞伎舞踊の確立という意味でこちらも江戸歌舞伎にとって新時代の象徴となりました。



 /// 長唄「元禄花見踊」と「町入能」 

「牡丹蝶扇彩(ぼたんにちょう おうぎのいろどり)」は、河竹黙阿弥(1816~1893年)作・歌舞伎狂言「松栄千代田神徳 (まつのさかえ ちよだのしんとく)」に続いて演じられた大切(おおぎり)の演目です。同狂言は徳川家康公の前半生を描く大河ドラマで、天正14(1586)年、家康公が聚楽第(じゅらくだい)で豊臣秀吉公に拝謁し、狐の皮で出来た陣羽織を賜(たまわ)ることで家臣としての恭順を示して、太平の世のはじまりを宣言するところで物語が終わります。

この狂言のあとに続いて出る舞踊ですので、「牡丹蝶扇彩(ぼたんにちょう おうぎのいろどり)」のテーマは「徳川政権礼賛」です。

江戸時代、将軍家の慶事(代替わりや婚儀)にあたり千代田城で能楽を催す際には、町会ごと回り番で選んだ5000人の町民を、昼夜交代制で観劇に招待する慣習がありました。招待された町会の町民は入り口で白い「から傘」を受け取って表舞台前のお白州に座り、将軍や幕府の武士らと同じ能を下座から観劇、帰りに門のところで祝いの酒とお菓子を受け取りました。また参加者には後日、町会を通して一貫文がふるまわれたそうです。将軍家主催のこのイベントは、「町入能(まちいりのう)」と呼ばれています。
※円・銭・厘の流通が開始された(国立銀行条例制定を経て各地の銀行が設立)明治5(1872)年、「一貫文」は2銭(0.02円)相当。

「牡丹蝶扇彩(ぼたんにちょう おうぎのいろどり)」初演時の「番付(ばんづけ)=芝居のパンフレット」記載のキャッチコピーは、そういうことで「上の巻 石橋の赤垂毛(しゃっきょうの あかたらしげ)」「下の巻 末広の白張傘(すえひろの しろはりがさ)」です。「上の巻=新石橋」は町入能で上演される能、「下の巻=元禄花見踊」は招待された町会の人々が喜び浮かれ、から傘を持って舞台下のお白州へ向かうさま、です。

「松栄千代田神徳 (まつのさかえ ちよだのしんとく)」と「牡丹蝶扇彩(ぼたんにちょう おうぎのいろどり)」は、テーマがつながっているのです。

(伝承絵)楊洲周延画「千代田之御表_御大礼之節町人御能拝見」
楊洲周延画「千代田之御表 御大礼之節町人御能拝見」

ところが、ご存知のように「元禄花見踊」では白い傘を振るような演出は見られず、歌詞にもいっさいそのような言及はありません。いったいこれは、どういう経緯(いきさつ)なのでしょう。




 /// 長唄「元禄花見踊」の原型曲と、かな草子「竹斎」 

関西の地歌関係・ファンの皆さまにはお気づきの方が多くおられると思うのですが、「元禄花見踊」の歌詞原型のひとつは、元禄期に活躍した「小野川檢校(生没年不詳)」の長唄「花見」です。

江戸時代の歌謡集『松の葉(元禄16年=1703年刊行)』に収録された初期長唄のひとつで、たいへん色っぽい唄です。この「花見」に、文政2(1819)年、江戸・河原崎座で初演された長唄「猿舞(さるまい)」を掛け合わせ、さらに何故か、かな草子『竹斎(ちくさい、元和7~9年=1621~1923年成立)』の「寛永ごろ製版本」の内容を取り込んだのが「元禄花見踊」です。

◆かな草子「竹斎(ちくさい)」あらすじ
京都に住むやぶ医者「竹斎(ちくさい)」が貧乏暮らしに飽きて海道下りを決断、見納めの京都見物をしてから名古屋へ行き、滑稽な治療を繰り広げたあとさらに下って江戸へ到着、江戸見物をしながら徳川礼賛の狂歌を唄う。寛永ごろに製版された本では、京都見物のあと黒谷で起きた侍の切腹未遂事件が挿入される。この侍のモデルは徳川家家臣・小笠原吉光(生年不詳~1607年)と、言われている。

(伝承本)かな草子『竹斎』寛永ごろ製版本の挿絵
かな草子『竹斎』寛永ごろ製版本から、恋しい若衆を迎える若侍

さらに言えば、ほんのちょっとだけ『吾妻鏡(鎌倉時代後半に成立)』が登場します。とは言え本当にちょっとなので、『吾妻鏡』は原型とまで呼べません(後述します)

「元禄花見踊」に同じ歌詞もしくは同じ趣向の文言が出てくる比率だけ見れば、「猿舞(さるまい)」→「花見」→「竹斎(ちくさい)」の順になり、全体の構成では「竹斎(ちくさい)」だけが似ています。はっきり言って、「元禄花見踊」は『竹斎(ちくさい)』寛永ごろ製版本の写しです。不思議ですね。

長唄「猿舞(さるまい)(文政2=1810年 江戸・河原崎座初演)-抜粋ー
4代目 杵屋六三郎(1779~1856年)

豊臣秀吉をモデルにした「出世奴」の物語なので、「奴行列の唄」が登場し、御油宿(現在の愛知県豊川市)、赤坂宿(同)、吉田宿(現在の愛知県豊橋市)を通過するだけの、中途半端な「海道くだり」が挿入される。
※奴行列は参勤交代の送り迎えが目的のため。

歌詞「晩の泊まりは御油(ごゆ)赤坂に 吉田通ればナア 二階から招くしかも鹿の子の振袖が」

御油宿・赤坂宿は現在の愛知県豊川市、吉田宿は現在の愛知県豊橋市。この吉田宿か、吉田宿を通過した先の岡崎宿で奴島田に丈長(たけなが=髪飾り)を掛けた傀儡女(かいらいめ)に二階から振袖で誘われ、奴の廓(くるわ)通いが始まった。


長唄「花見」(元禄時代)-抜粋ー
京都で活躍した小野川検校(生没年不詳)

物語は江戸の上野山から始まる。

歌詞「花の香に衣は深くなりにけり 木の下かげの風のまにまに 八重の霞にいや高き 恵みになにか上野山」

「花の香りが深くなれば、衣の色(情愛)も深くなって、小枝の下を吹き抜ける風のまにまに、高い上野の山が天の恵みのように、八重に重なる霞のあいだから顔を出す」と、いう意味。

この上野山の花見席で、廓(くるわ)の女たちと粋客の色っぽいやり取りがくりひろげられる。


かな草子「竹斎」(元和7~9=1621~1623年成立)-抜粋ー
烏丸光廣(1579~1638年)もしくは磯田道冶(1585~1634)

(みやこ)に住む「やぶくすし(藪医者)竹斎(ちくさい)」が貧乏に飽きて江戸移住を決断、「海道くだり」前の見納めの京都見物で北野天満宮の「貴賤群集(きせんくんじゅ)限りなく」という、身分の入り乱れた開放的な花見風景に遭遇する。


こまかい照応関係と注解を下記ページにまとめました。よろしければ。
→長唄「元禄花見踊」の歌詞を解析してみた!(別ページが開きます)

そうして上記三作の共通点は、そのテーマが江戸・徳川政権の礼賛(「猿舞」は徳川家康公が恭順した豊臣秀吉が主人公)であることです。長唄「花見」を作った小野川検校は京都生まれと伝わりますが、いったい本当でしょうか。ちなみに小野川検校は江戸の生まれ、後年大阪へ移住した、という説もあります。江戸っ子かたぎの唄が関西の地には馴染まなかったか、地歌流派としては廃絶しているようです。


明治という近代の作品のため何でもわかっているように思うけれど、その実、詳しいことは何もわかっていない(伝わっていない)のが長唄「元禄花見踊」です。この唄を耳にするたび、自分は「明治の闇」を見る気がします。



 /// 長唄「元禄花見踊」の闇・明治維新の闇 

(1)長唄「元禄花見踊」は、何故「竹斎(ちくさい)」そっくりなのか。
(2)作詞者「竹柴瓢助」はいったい何者か。
(3)長唄「元禄花見踊」の作詞者は、そもそも本当に竹柴瓢助なのか、それともやっぱり河竹黙阿弥なのか
(4)長唄「元禄花見踊」のテーマは何か、どうして「白張傘(白貼傘)」を出さないのか
(5)徳川政権礼賛がテーマの長唄「元禄花見踊」を、天覧歌舞伎の演目に選んだのは誰なのか
(6)徳川政権礼賛がテーマの長唄「元禄花見踊」を、天覧歌舞伎の演目に選んだのは何故なのか
(7)長唄「元禄花見踊」は、どうしてこんなにエロいのか

筆者の見るかぎり、「元禄花見踊」には、少なくともこれだけの謎が存在します。


と、ここまで読んでいただいて何ですが、この記事は「元禄花見踊」を掘り下げて語る記事でして、以前に書いた記事の「続き」のような内容です。同演目の概略をざっとご覧になるのであれば、下記リンクの記事の方が比較的短くまとめてあり、お役に立てると存じます。よろしければ、下記もご利用ください。

【おことわり】
このページの内容は下記ブログの「続き」のような内容です(一部重複)
なんでエロなん。長唄「元禄花見踊り」全訳



 /// 長唄「元禄花見踊」は、何故「竹斎」にそっくりなのか 

Kabuki Genrokuhanamiodori : 上月まこと画、長唄「元禄花見踊」岡崎女郎衆
上月まことイラスト・長唄「元禄花見踊」岡崎女郎衆のイメージ


長唄「元禄花見踊」が『竹斎(ちくさい)』にそっくりなのは、単純に、『竹斎(ちくさい)』が江戸っ子に人気だったからだと思います。

庶民も入手しやすかった汎用版・寛永ごろ製版本の『竹斎(ちくさい)』を取り込んでいるから、そう思うのです。「徳川政権礼賛=江戸礼賛」が、江戸っ子自身に喜ばれないはずがありません。時代が変わり明治になっても、多くの江戸っ子は『竹斎(ちくさい)』への愛着を忘れなかったことでしょう。

たとえば「元禄花見踊」の歌詞のうち「裾に八つ橋染めても見たが ヤンレほんぼにさうかいナ そさま紫色も濃い ヤンレそんれはさうぢゃいナ」の部分は、観客との掛け合いを想定しているように感じます。新しい新富座のこけら落とし公演で観客と一緒に盛り上がるため、わざわざ新しい「花見」踊りを作り、中身は全部書き改めて、民衆に人気の『竹斎(ちくさい)』をこっそり上演したのではないでしょうか。

どうして「こっそり」なのかと言えば、それはゆきすぎた徳川政権礼賛の印象を避けるためでしょう。新富座の来場式には、ときの首相・三條太政大臣こと三条実美(さんじょうさねみ、1837~1891年、公爵)をはじめ、多くの明治政府高官と外国人公使が招待されていました。そのため、少しばかり政治的な配慮をしたように感じられます。

長唄「元禄花見踊」の歌詞を解析してみた!←このページからの抜粋です。
元禄花見踊(竹柴瓢助/杵屋正次郎)
裾に八つ橋染めても見たが ヤンレほんぼにさうかいナ
シンボル→イメージ 地域・時代など
八橋
→東くだり、伊勢物語、杜若(かきつばた)
東海道
愛知
・知立(ちりゅう)
・豊橋
長唄「猿舞」(4代目 杵屋六三郎作、文政2年=1819年河原崎座で初演)

長唄「花見」(小野川檢校作、元禄期=1688~1704年に活躍)

かな草子「竹斎」(烏丸光廣もしくは磯田道冶作、1621~1623年成立)
三年名古屋で暮らした竹斎(ちくさい)は、心が落ち着かなくなって再び旅路の人となる。熱田から鳴海宿へ行って一泊、岡崎宿を越えて赤坂宿(現在の豊川市)に一泊、翌日は吉田宿(現在の豊橋市)へ向かい二川(ふたがわ)に着いたところでちょっと足をのばして八橋(やつはし)を訪れる。

ところで、この八橋の段を読む人は、みな一様に首をひねる。

知立(ちりゅう)市にある歌枕・八橋は、豊橋市からちょっと寄るには遠すぎる。竹斎(ちくさい)が訪れたのは、知立(ちりゅう)市にある八橋ではなく、豊橋市岩田町の八ツ橋なのではないか(現在は田んぼだが、戦国時代は沼地で板の橋が縦横に架け渡されていた?)


元禄花見踊(竹柴瓢助/杵屋正次郎)
そさま紫色も濃い ヤンレそんれはさうぢゃいナ
シンボル→イメージ 地域・時代など

→情愛の色、遊女・遊君・傀儡女(かいらいめ)
色が濃い
→情愛・情けが濃い
江戸
・広い平原
・武蔵野
※江戸は武蔵国(むさしのくに、現在の東京・埼玉・神奈川県川崎市と神奈川県横浜市)に属していた
※「武蔵野=紫」が定番になったのは、下記の唄が流行したせい「紫のひともとゆゑに武蔵野の草はみながらあはれとぞ見る」古今集17雑
長唄「猿舞」(4代目 杵屋六三郎作、文政2年=1819年河原崎座で初演)

長唄「花見」(小野川檢校作、元禄期=1688~1704年に活躍)
歌詞「花の香に衣は深くなりにけり」

「花の香りが深くなれば、衣の色(情愛)も深くなって」という意味。
かな草子「竹斎」(烏丸光廣もしくは磯田道冶作、1621~1623年成立)
八橋に着いた竹斎が在原業平(伊勢物語)が詠んだという杜若(かきつばた)の歌に思いを馳せ、今はもう見る人もいなくなった花をあわれんでいると、里人がやって来て「昔はもっと色が濃かったのですが、今は薄くなってしまいました」と言う。昔の人は情愛が濃かったのに、今の人は薄情だと言うのだ。

竹斎(ちくさい)は里人に同意し、「花の色だけは、昔どおりであってほしい」という狂歌を残す。




 /// 作詞者「竹柴瓢助」はいったい何者か 

「元禄花見踊」の作詞者・竹柴瓢助について、きちんと記述した邦楽解説書を見たことがありません。そこにはたいてい、シンプルに「作詞・竹柴瓢助」とあるだけです。たった明治のことなのに、生没年も活動内容もわかっていないかのようです。にもかかわらず、たいていの場合「生没年不詳」とまでは明記しません。要するに「わかっているけれど、問題があって書かない」体(てい)で統一されているのです。

竹柴瓢助に活動実績がないかと言えば、それは違います。竹柴瓢助は安政6(1859)年2月江戸・市村座「小袖曾我薊色縫(こそでそが あざみのいろぬい)(明治大学文学部教授・内村和至氏調べ)から、少なくとも明治27年7月(1894年7月東京・市村座「鈴音眞似操(れいのおと まねてあやつり)」まで、断続的に市村座(村山座)・新富座の狂言作者として番附に登場し続けます。

(芝居番付)「小袖曾我薊色縫(こそで そが あざみの いろぬい)」
寛永6年2月、江戸・市村座「小袖曾我薊色縫(こそで そが あざみの いろぬい)」


かつ、人気戯作者で、歌舞伎狂言版権保持者・取扱人(「スケ=補作者」だけではない)です。

明治18(1885)年に出た『東京流行細見記』という本では、竹柴瓢助は河竹黙阿弥(1816~1893年)らと一緒に人気狂言作者の類に入っています。東京流行細見というのは「これだけわかっていれば、東京で困らない」という、東京ガイドです。また、明治23(1890)年に出た演劇ガイド本『演劇通史」では、竹柴瓢助は「三座現今狂言作者及版権取扱人」として、同じく河竹黙阿弥らと同等に取り上げられています。

(伝承本)『東京流行細見記』
明治18(1885)年刊行『東京流行細見記』


(伝承本)『演劇通史』
明治23(1890)年刊行『演劇通史』


江戸っ子に人気の『竹斎(ちくさい)』を、「松栄千代田神徳 (まつのさかえ ちよだのしんとく)」の大切(おおぎり)にしれっと出すような戯作者なのだから、人気があるのは当然です。

竹柴瓢助は何者か。その答えはわりに簡単です。
竹柴瓢助の正体は、黄表紙作者で戯作者の「四方梅彦(よもうめひこ、1822~1896年)」です。明治23年に刊行された『東京百事便』という東京ガイドでは、「四方梅彦」は、河竹黙阿弥と同等の人気戯作者として紹介されています。

(伝承本)『東京百事便』
明治23(1890)年刊行『東京百事便』


四方梅彦は「文亭梅彦(ぶんていうめひこ)」名義で『江戸鹿子紫草紙(えどかのこ むらさき そうし)(初代・柳亭種彦作「諺紫田舎源氏」のアレンジ)、『浮世形六枚屏風(うきよがた ろくまいびょうぶ)(初代・柳亭種彦の同作を翻刻)など十数冊の合巻本(江戸時代末期に流行った絵入小説)をものし、くわえて「柳屋梅彦(やなぎやうめひこ)」名で自身も戯作者に名を連ねた歌舞伎「東駅(とうかいどう)いろは日記(文久元=1661年、江戸・市村座)」などの正本写(しょうほんうつし、歌舞伎台本をもとに絵入小説化したもの)を世に出した通人・文化人です。さらに言えば「松園梅彦(まつぞのうめひこ)」名で「五国語箋(ごこくごせん)」という五ヶ国語語彙集(小辞典)を書いてしまった奇才です。しかしすべてが本業ではなく、銘酒「瀧水(たきすい)」や酒の肴「四方の赤味噌」で知られる、日本橋新和泉町(神田和泉町というのはマチガイ)の老舗・四方酒店の現役当主でした。

四方梅彦は、いっぱんに「狂歌作者」として知られていますが、狂歌に関してはそれほど深くかかわっていないらしく、自作狂歌はほとんど発表していません(「江戸鹿子紫草紙」にちょっとある)。「文亭梅彦」名で「近世商賣尽狂歌合(きんせいあきないづくし きょうか あわせ)(嘉永6年=1853年)という豊芥子(ほうかいし、江戸の芥子粉屋の蔵書家で狂歌作家、1799~1832年)の本を出したのが有名になり、世間に狂歌作者と認識されてしまったようです(狂歌の会「狂歌いろは連中」には所属)

そしてこの狂歌が、四方梅彦の経歴をウヤムヤにしてしまいました。たとえば昭和3(1928)年刊行『狂歌人名辞典』は、四方梅彦の戯作者名を「竹柴瓢蔵」としています。狂歌界によるこのマチガイは明治時代からすでにあったと見え、伊原青々園(小説家、1870~1941年)や河竹繁俊(河竹黙阿弥の娘の養子・演劇研究、1889~1967年)はあちこちの本で「四方梅彦は竹柴瓢助」と訂正しています<1963年刊行『歌舞伎年表』、1966年刊行『黙阿弥の手紙・日記・報条など』など>

ちなみに「竹柴瓢蔵」という戯作者は実在しますが、四方梅彦の死後も活動しているため、別人であるのは明らかです(1901年、歌舞伎「岩井松三郎」補作など)

(伝承本)『江戸鹿子紫草紙(えどかのこ むらさき ぞうし)』
文亭梅彦・豊国合巻本『江戸鹿子紫草紙(えどかのこ むらさき ぞうし)』


数年前、ふと興味がわいて「竹柴瓢助」という戯作者を、幕末から明治20年ごろまでの、市村座(村山座)、新富座(河原崎座)、中村座、歌舞伎座、明治座(千歳座)にいた「竹柴」姓を持つ戯作者の名簿から探したことがあります(明治政府に提出した資料のようです)。しかしそこに「竹柴瓢助」はいませんでした。

修行実績がまったくないということは、「竹柴瓢助」が坪内逍遥(1859~1935年)や岡本綺堂(1872~1939年)らと同じ文士戯作者であることは推測できます。しかし、戯作を依頼される文士はもとから有名人のため、その作品は本来のペンネームとともに残ります。筆者はわりに長いあいだ竹柴瓢助を探していましたが、文化人・文士と言うよりも、梨園においては客分に近い、四方酒店の四方梅彦が竹柴瓢助だったのは盲点でした。

筆者が竹柴瓢助の経歴を探したのは、当然「元禄花見踊」の歌詞が上手だったからです。そうして、筆者の感覚では「元禄花見踊」が、どうも河竹黙阿弥作・歌舞伎舞踊「船弁慶」の歌詞に似ているように思えたからです。もともと歌舞伎狂言作者としての河竹黙阿弥と、歌舞伎舞踊の歌詞(浄瑠璃歌詞)作者としての河竹黙阿弥の作風には明確な違いがあると感じており、共作者を探していました。

歌舞伎狂言作者としての河竹黙阿弥は、着想は自由だけれど筆致は伝統様式にしたがう、生真面目な戯作者です。「しらざぁ言って、聞かせやしょう」などの名台詞で知られますが、それも古い歌舞伎に昔からあった台詞です。いっぽう、河竹黙阿弥の歌舞伎舞踊歌詞(浄瑠璃歌詞)には多くのあたらしい表現があり、とりあげられる故事来歴も起伏にとんだ内容です。ところが9代目 市川団十郎(1838~1903年)の河竹黙阿弥観は「(演劇改良に関して)黙阿弥は狂言を書くのは巧(うま)かったろうが、青表紙を覗いた事の無い人だから役には立たないし」と、いうものです<榎本虎彦著、明治38年=1905年刊行『桜痴居士と市川団十郎』>。9代目 市川団十郎の言う「青表紙」というのは、もとの意味「儒学関係の本」から転じて「堅苦しい本」全般のこと、河竹黙阿弥が歴史故事に関して知識が豊富だったとは、とても思えません。だからその河竹黙阿弥が歌詞を作るとき、誰かが補佐しなければ、こうまで知識豊富とははならないだろうと感じたわけです。

(歴史的写真)河竹黙阿弥
河竹黙阿弥



 /// 長唄「元禄花見踊」の作詞者は竹柴瓢助か、それとも河竹黙阿弥か 

この新型コロナ騒ぎのなか少しばかり時間がとれ(仕事なくなった!)、明治大学文学部教授・内村和至氏の「四方梅彦雑纂―幕末歌舞伎・戯作の一側面―」という論文を読みました<2004年発表『歌舞伎―研究と批評』34号>。そこでの新しい発見は、生前の四方梅彦と交流のあった大槻如電(おおつきじょでん、仙台藩国学者、1845~1931年)が、河竹黙阿弥が4代目 清元延寿太夫(1832~1904年)のため書き下ろした「青楼春道中双六(さとのはる どうちゅうすごろく)」について、竹柴瓢助の代作と伝えていたことです。しかも、そもそも河竹黙阿弥は芝居の台詞(せりふ)は書けても文章自体は書くのが苦手で(5代目 清元延寿太夫も同意見)、歌舞伎舞踊歌詞(浄瑠璃歌詞)はほとんどすべて、竹柴瓢助に書かせていたと言うのです。

竹柴瓢助こと四方梅彦と、4代目 清元延寿太夫に親密な交流があったらしいことは、『「唾玉集(だぎょくしゅう、井原青々園編集、1906年)』で明らかです。「青楼春道中双六(さとのはる どうちゅうすごろく)」という曲の歌詞ですが、筆者は確かに「元禄花見踊」と同じ作者の作品だと感じました。もっと言えば、常磐津「松島」も同じですね。とにかく「街道めぐり」が、むちゃくちゃ上手なのが特徴です。

ところが、「柳屋梅彦」もしくは「杵屋梅彦」名で四方梅彦が書いた長唄、「岸の柳」(明治6年=1873年)について考えたとき、筆者は疑問に思うのです。「岸の柳」は端歌風に書いたもので軽いタッチなため、「元禄花見踊」とは雰囲気が違います。だとしても気になるのは、「平家物語」「「源平盛衰記」の逸話「平経正(たいらのつねまさ、琵琶の名手)」の出し方が、少しばかり乱暴にすぎると感じることです。

岸の柳(柳屋梅彦作詞、3代目 杵屋正次郎)ー抜粋ー

寄せては返す波の鼓(つづみ) 汐(しほ)のさす手も青海波(せいがいは)
(か)の青山の俤(おもかげ)や 琵琶湖をうつす天女の光り
その糸竹の末長く 護(まも)り給へる御誓ひ
げに二つなき一つ目の
宮居(みやゐ)も見えて架け渡す 虹の懸橋両国の
往来絶えせぬ賑ひも 唄の道とぞ 祝しける

(現代語訳)
寄せては返す波音は、鼓のそれのように。
潮のさす手ひく手は、青海波の舞手のように。
ああ、あの琵琶・青山の面影が、両国の水辺に浮かびます。
琵琶・青山の演奏を喜ぶように、琵琶湖に降り注いだ天女の光。
その青山の玄が奏でる糸竹の音色は、
弁財天さまが末永くお守りくださるという、お約束の音色。
そら、本所一ツ目弁才天さまのおやしろが見えるところに、
虹の架け橋のような両国橋が架かっていますよ。
往来のたえない賑わいが、この通りこそ三味線の道、唄の道であると、
弁才天さまが、お祝いしてくださっている証拠なのです。

戦記ものを出したがるのも四方梅彦の特徴ですが、両国橋を舞台に「彼(か)の青山の俤(おもかげ)や」は、ちょっとやりすぎです。平経正(たいらのつねまさ)が琵琶「青山」を奏でたところ琵琶湖の空に天女が飛んだ伝説から、「天女→弁財天→両国(江嶋杉山神社)」という連想なのは承知してますが、どうもスッキリしないのです。東京育ちとしては弁財天と言われれば下谷しか思いつかないし、そもそも両国橋(神田・日本橋を本所・深川へ接続)・隅田川の下町的なイメージと、平家落人が死を覚悟して貴重な琵琶を返却した仁和寺・琵琶湖の高貴なイメージが、どうも上手に結合しません。しかも平経正(たいらの つねまさ)は没落して落命したわけで、弁財天さまのご利益も、なかったように見えますね。琵琶「青山」の幻想は、この唄に必要なものだろうか、と。

この作品を見るかぎり、四方梅彦個人の作品は才気ばしって仰々しいだけで、ちっとも面白くはないです。その意味で、自分は「河竹黙阿弥の歌舞伎舞踊歌詞(浄瑠璃歌詞)はすべて竹柴瓢助作」という大槻如電(おおつきじょでん)の言い分に全面的には賛同できず、だからと言って河竹黙阿弥ひとりのものとも思えず、多くの作品が河竹黙阿弥と竹柴瓢助(時には別の作者)の共作のように感じています。そこにはもちろん「元禄花見踊」も含まれます。「岸の柳」より「元禄花見踊」の方が、ずっと面白く、良い加減に出来あがっているからです。

ところで河竹黙阿弥は、生前「元禄花見踊」を自身の作品と主張していました。

(伝承本)『脚本楽譜条例・楽譜名題目録 吉村新七著作長唄浄瑠理』
明治23(1890)年刊行『脚本楽譜条例・楽譜名題目録 吉村新七著作長唄浄瑠理』

河竹黙阿弥は明治20(1887)年に制定された版権条例(著作権法の前身)以後、自身の作品の版権登録を進めました。『脚本楽譜条例・楽譜名題目録 吉村新七著作長唄浄瑠理』は明治23(1890)年、河竹黙阿弥こと本名・吉村新七が自作の版権を主張するために出版した目録本です。ここには現在いっぱんに河竹黙阿弥作品と認識されている「牡丹蝶扇彩(ぼたんにちょう おうぎのいろどり)」の「新石橋」はもちろん、竹柴瓢助作品と認識されている「元禄花見踊」も含まれています。そうして現在のJasracの登録は、「牡丹蝶扇彩(ぼたんにちょう おうぎのいろどり)」も「新石橋」も「元禄花見踊」もすべて、竹柴瓢助作品(3代目 杵屋正治郎と共有。保護期間経過により著作権消滅)です。

筆者としてはこのあたりが、竹柴瓢助について、多くの関係者が口をつぐんでしまう原因だろうと類推します。他人ごとながら一点気になるのは、明治のころから「竹柴瓢蔵」と間違えられていた竹芝瓢助こと四方梅彦のご遺族は、竹柴瓢助の著作権料を、ただしく受け取ることができたのかしらん? と、いうことだけです(おせっかいでもあり、ゲスでもあり反省)

Kabuki Genrokuhanamiodori : 上月まこと画、長唄「元禄花見踊」御所の腰元
上月まことイラスト・長唄「元禄花見踊」御所の腰元のイメージ


四方梅彦という人は、かな草子愛好家の世界では上田秋成(1734~1809年)作『春雨物語』について、文芸史上はじめて言及した記憶の達人として知られています。坪内雄蔵こと坪内逍遥(1859~1935年)とその弟子・水谷不倒(1858~1943年)が『近世列傳躰小説史(きんせい れつでんたい しょうせつし)』を出したのは明治30(1897)年のこと、そこに四方梅彦が「一度見たことがある」と『二世の縁(えにし)』のあらすじを語ったエピソードがとりあげられています。このとき、四方梅彦は『春雨物語』を『雨夜物語』と間違って記憶していました。『春雨物語』の翻刻は明治40(1897)年、貴重な写本の存在が公表され「二世の縁(えにし)』を含む『春雨物語』の全貌が明らかになったのは、なんと昭和22(1947)年から昭和25(1950)年にかけてのことでした。

当時も今も写本はたいへん高価なため、江戸時代の階級社会のなかでそれを読むには裕福であるだけでなく、地位や名誉も必要です。四方酒店は武士階級ではなく、だから四方梅彦はそれなりに手を尽くして目にする機会を得たのだろうと思われます。その「かな草子」にかける情熱は、尋常ではありません。そのような人だから「元禄花見踊」のような、表面の流れ(猿舞、花見踊)と裏の物語(竹斎)が同時並行で進んでゆく、複雑な歌詞が書けたのでしょう。

麹町で暮らしていた四方酒店の当主・四方梅彦は、30代なかばごろから浅草の今戸へ移ると梨園関係者と交際して戯作者になり、75歳で病没しました。この間、店の経営は身内にまかせていたようです。現在は亀戸の「普門院」に眠っています。



 /// 長唄「元禄花見踊」のテーマは何か、どうして白張傘を出さないのか 

白張傘(白貼傘)が出てこないのは、大人数で踊ったからだと思います。元禄風衣装ということで、おそらくみんな腰巻状態、それでおのおの傘を振り回したら狭い花道から落ちてしまいそうです(両脇の花道の一本は仮設花道)。傘は最初から、キャッチコピーだけだったと思います。

歌詞の後半、「黒い盃」という縁起の悪そうなイメージと、「和田酒盛」という幸若舞(こうわかまい)の演目名が唐突に登場します。これらの文言は先行する「花見」「猿舞」にも、「竹斎(ちくさい)」にも存在しません(古浄瑠璃「道外和田」の歌詞が、ほんのひとふし「花見」に入っています)。つまりこの部分こそ、作詞者・竹柴瓢助が表現したかったメインテーマです。

幸若舞(こうわかまい)というのは能や歌舞伎の原型のひとつ、小鼓の伴奏にあわせ、ふたりの太夫が唄いながら舞う芸能です。織田信長公(1534~1582年)が死の直前に舞ったという「敦盛(あつもり)」が、もっとも知られています。

Kouwakamai Atsumori : 上月まこと画、幸若舞「敦盛(あつもり)」
上月まことイラスト・幸若舞「敦盛(あつもり)」


幸若舞(こうわかまい)「和田酒盛」は、源義経(1159~1189年)の首実験をした<『吾妻鏡』>和田義盛(わだよしもり、1147~1213年)をモデルに置いた物語です。相模国(さがみのくに=現在の神奈川県)の住人「和田吉盛(わだよしもり)」が、長者の娘で遊女・虎御前の「思いざし(恋の契り)」をめぐり、虎御前の恋人である曾我十郎助成(そがのじゅうろう すけなり)と恋のさや当てを繰り広げたあげく、兄の助太刀に駆けつけた十郎の弟・曾我五郎時宗(そがのごろう ときむね)に気迫負けして、家臣を連れ、すごすご帰ってゆく物語です。

タイトル「和田酒盛」は奥州討伐のあと、源頼朝(1147~1199年)が和田義盛に贈った盃です<鈴木高朗妻『江嶋諸往来紀』片玉集巻67>。「元禄花見踊」歌詞のとおり、「月に兎」が蒔絵された、黒塗りの盃でした。江戸時代には和田氏の末裔が鎌倉で見物に供していたようなので、竹柴瓢助こと四方梅彦ならば一度は見たことがあったでしょう。

鈴木高朗妻「江嶋諸往来紀」<片玉集巻67、江戸後期>ー抜粋ー

それより宿に帰る。この主、和田の裔にて頼朝公の感状(かんじょう)、并(それ)に和田酒盛の盃とて有り。深さ菓子入るる盆程にて、かき合わせ黒塗り金粉にて霞に月・波に兎・岩などの蒔絵したり。

(現代語訳)
そこから宿に帰ったが、宿の主は和田氏の末裔で、源頼朝公のお礼状と「和田酒盛」という盃を持っていた。深さは菓子が入るお盆ぐらいで、黒塗りに金粉で霞に月、波に兎、岩などが蒔絵してあった。

この盃が先にあって幸若舞(こうわかまい)「和田酒盛」が作られたのか、それとも幸若舞(こうわかまい)「和田酒盛」の成立を受けて源頼朝の下賜品が偽造されたのか、真偽のほどはわかりません。

Kabuki Genrokuhanamiodori : 上月まこと画、長唄「元禄花見踊」黒い盃
上月まことイラスト・長唄「元禄花見踊」黒い盃のイメージ


『吾妻鏡』によると、首実検の場に届けられた源義経の首は、黒塗りの首桶の中で美酒に漬けられていました。そこから陰惨な酒盛り(=首実験)のイメージが生まれ、「和田酒盛」という駄洒落のような名前の盃や、どことなく血なまぐさい幸若舞(こうわかまい)の演目が生まれました。ちなみに、首実験に立ち会った和田義盛と梶原景時(1140~1200年)は、ともに裏切りによって滅んでいます。

死ぬべきでない英雄の死と、その首桶の美酒に酔いしれた支配者が辿った破滅の道を「黒い盃 闇でも嬉し」と皮肉ったのですから、これは明治維新政府への批判です。死ぬべきでない英雄こと、ここでの源義経のモデルは坂本龍馬(1836~1867年)か、新富座開場式前年の明治10(1877)年、鹿児島で非業の死を遂げた西郷隆盛(1828~1877年)あたりでしょうか。「黒い盃」を喜んで呑んだのは、彰義隊を全滅させた大村益次郎(1824~1869年)のように思います。新築工事に入る直前まで新富座で上演されていたのは河竹黙阿弥作「西南雲晴朝東風(おきげの くもはらう あさごち )」、西南戦争の悲劇をリアルに描いた戦記もので、空前絶後の大入を記録しています。

(伝承絵)勝安房「(勝海舟)西郷吉之助(西郷隆盛)会見図」
勝安房「(勝海舟)西郷吉之助(西郷隆盛)会見図」


筆者は東京出身ですが(三代続いていないので江戸っ子ではない)、このころの東京市民がいかに西郷びいきだったか、明治生まれのお年寄りからよく聞かされました。東京市民が西郷隆盛の晩年の境遇に同情し、明治維新政府に批判的だったのは当然です。武士階級でない江戸っ子は無血開城を選択した徳川政権と、その条件を呑んだ西郷隆盛(慶応4=1868年3月13~14日の会見)に深い恩義を感じていましたし、少人数ながら上野の山の戦闘で志を持つ若い旗本たち(ほぼ20代)が無残に殺されてゆくのを、固唾を呑んで見守っていました(時々刻々と瓦版が出たらしい)地域によっては退避・外出禁止の御触れが出ていたなか、江戸っ子たちはそれでも火消し装束を身につけ、爆撃の合間を縫うように生存者を探しては救助に回っていたそうです。ちなみに、現在の上野山の西郷隆盛像は賊軍として死んだ彰義隊の供養搭がわり、裏手に彰義隊を火葬した記念碑が設置されています。

このとき彰義隊が流した血は、令和の時代を迎えたいまも、上野寛永寺の黒門(現在は荒川区南千住の円通寺へ移築して保存)に残っています。「元禄花見踊」は上野戦争(慶応4年=1868年5月15日)の現場であった上野寛永寺を、そのたった10年後に新時代の象徴として題材にとろうという唄です。しかしこのころ、彰義隊の生き血を吸った黒門はまだ、東京市民への「見せしめ」として上野寛永寺に放置されていました(明治40=1907年、移築)上野の山はまだ焼け野原、むしろこの「黒い盃」が、明治維新政府批判でない理由がありません。

「江戸に田舎ざむらいがどっと来た」「半可通の田舎ざむらいが、いきがって我がもの顔で町中を闊歩し、俺たちを支配した」というのが、当時の江戸っ子の市民感情でした。江戸っ子はまだ江戸徳川政権への愛着を捨てきれず、明治維新政府に批判的だったのです。なお、新富座開場式(明治11年=1878年6月)の直前、明治11(1878)年5月には当時の内務卿・大久保利通(おおくぼとしみち、1830~1878年)が、紀尾井町で暗殺されています。
(歴史的写真)「上野戦争」あとの上野山
「上野戦争」あとの上野山で埋葬と供養にまい進する僧侶たち



それにしても、この歌詞を政府高官臨席の新富座開場式で披露したとは、座主・12代目 守田勘弥(1846~1897年)も良い度胸です。というか、歌詞の意味をほんとうに理解していたでしょうか。

かさねて言えば、この唄をわざわざ天覧歌舞伎に出そうと言った言いだしっぺは、いったいどこのどなたでしょう。かな草子ファンとしては面白いと思う唄ですが、これをときのおかみ(明治天皇)にお見せしたいと思った、その意図がよくわかりません。



 /// 徳川政権礼賛がテーマの長唄「元禄花見踊」を、天覧歌舞伎の演目に選んだのは誰なのか 

明治20(1887)年4月、麻布にあった井上馨(1636~1915年、明治17年伯爵、明治40年より侯爵)外相邸の茶室開きに行幸(みゆき)を仰ぎ、その余興に歌舞伎が供されることになりました。歴史的な天覧歌舞伎となったこの行幸には、歌舞伎を西洋演劇と同じ文化芸術へひきあげることを目指した「演劇改良会(発起人筆頭は井上馨、賛成人筆頭は伊藤博文、1886~1888、日本演芸矯風の前身)」がかかわっています。そのため、統括したのは同会発起人のひとりである末松謙澄(すえまつけんちょう、ジャーナリスト・政治家・歴史学者、伊藤博文の女婿、1855~1920年、明治28年男爵、明治40年より子爵)です。

大正元(1912)年に刊行された『明治大帝(澤田忠次郎著、帝国軍人教育会)』という本には、「末松子(すえまつし=末松子爵)の指導等に依(よ)りて決定せし狂言は左(さ)のごとくなりし」とあり、続いて上演演目が紹介されています。要するに、演目を決めたのはこの末松謙澄(すえまつけんちょう)です。天覧歌舞伎の座主・座頭であった9代目 市川団十郎の弁によれば、明治20(1887)年4月2日新富座の座付茶屋「武田屋」へ呼ばれて行くと井上外相の夫人と杉孫三郎(1835~1920年、子爵)と末松謙澄(すえまつけんちょう)が待っており、その席ですぐさま「勧進帳」「高時」「操り三番叟」「元禄花見踊」が決まっています。天覧歌舞伎のプロデューサーは守田勘弥と言われがちですが、実際には9代目 市川団十郎がほぼすべてを行っています。打ち合わせのため井上邸へ通い始めたあと、多忙に耐えかね12代目 守田勘弥を招聘したのです<榎本虎彦著、明治38年=1905年刊行『桜痴居士と市川団十郎』>

(伝承絵)楊洲周延画「高貴演劇遊覧ノ図」
楊洲周延画「高貴演劇遊覧ノ図」早稲田大学 chi05 04150



 /// 徳川政権礼賛がテーマの長唄「元禄花見踊」を、天覧歌舞伎の演目に選んだのは何故なのか 

末松謙澄(すえまつけんちょう)は福岡県の庄屋の息子で東京日日新聞記者だった人です。同じ東京日日新聞の福地桜痴(1841~1906年、ジャーナリスト・戯作者・歌舞伎座創設者)の紹介で官僚になり、外交官としてイギリスへ赴任するなどしたあと政界に身を投じて、明治28(1895)年男爵、同40(1907)年子爵に昇格されています。漢学・国学・歴史学をものした才人ですが、この天覧歌舞伎における脚本の書き換えでは、岡本綺堂ら多くの文化人から激しく批判を浴びました。徳川政権礼賛かつ明治維新政府批判しかない「元禄花見踊」に、どのように手を加えたかは不明です。漢文、国学、歴史学、国文法を駆使しても、それだけで江戸の浄瑠璃(歌舞伎舞踊歌詞)は読み解けません。

梨園への申し入れがあった4日後から新聞各紙が報道を開始、同年4月26日~29日の開催中には宮内省(宮内庁の前身)の発表にしたがい、上演された演目や列席者について詳細な報道がなされました<茂木優子「明治期の欧化政策と天覧劇との関係について」(『政治学研究』45号.2011年)>。ちょっと面白かったのは、東京スポーツの前身「やまと新聞」が、天覧歌舞伎2日目(4月27日)に上演された河竹黙阿弥作「土蜘蛛」を紹介した記事の挿絵です。

(伝承絵)新聞「やまと新聞」展覧歌舞伎2日目 御覧演劇二 土蜘蛛
新聞「やまと新聞」明治20(1887)年4月29日「御覧演劇の二」土蜘蛛

「やまと新聞」は報道機関代表者らが列席した4月28日、井上外相邸で歌舞伎を見ていますが(行幸なし)、この28日に「土蜘蛛」は上演されていません。ですからこの挿絵は、宮内省(宮内庁)の発表にしたがって描いたものです。おわかりと思いますが、この挿絵を発注した新聞記者はおそらく、歌舞伎「土蜘蛛」の原型である謡曲「土蜘蛛」さえ見たことがありません。なんと、蜘蛛の巣を背景に舞楽「胡蝶」が舞い踊っています。歌舞伎「土蜘蛛」の胡蝶は源頼光(みなもとのよりみち、みなもとのらいこう、944~1021年)の侍女なので、衣装は「唐織着流し(からおり きながし)」、ひとり踊りですから! はてさて、伝言ゲームの起点となった宮内省(宮内庁)は、いったいどういう発表をしたものやら。

思うに、宮内省(宮内庁)はもちろん、ときの政治家や演劇改良会の面々も、本当のところ歌舞伎にそれほど興味はなかったことでしょう。河竹登志夫氏(河竹黙阿弥の曾孫で河竹繁俊の子、演劇研究家・文学博士、1924~2013年)など多くの研究者が指摘するように、明治維新政府は欧米列強との外交交渉のため社交場を必要としただけ、芝居小屋を第二第三の鹿鳴館に変え、外国公使の観劇に耐えるレベルまで歌舞伎狂言を西欧化かつ高級化しようとしただけでした。

「土蜘蛛」が舞楽「胡蝶」の亜流にされてしまうぐらいだから、「元禄花見踊」は、酔っ払いが輪になって行道(ぎょうどう)する舞楽「輪台(りんだい)」の亜流ぐらいの、理解だったと類推します。

ところで、天覧歌舞伎さなかの4月28日、首相・伊藤博文(1841~1909年、明治40年=1907年より公爵)による岩倉具視(1837~1891年)公爵の令嬢・戸田極子(とだきわこ、1858~1936年)への暴行疑惑が報道(東京日日新聞、真偽不明)されると、それまで好意的だった世論の風向きが一変します。天覧歌舞伎や鹿鳴館など、政府の欧化政策全般に対する反感が急激に高まり、新条約案(裁判所判事の外国人登用)への批判もあって井上馨外相は引責辞任(9月)、進んでいた条約改定交渉はいったん無期限延期へと追い込まれます。ようやく不平等条約が改定されたのは、日清日露戦争を経た明治44(1911)年のことでした。

Kabuki Genrokuhanamiodori : 上月まこと画、長唄「元禄花見踊」踊る侍
上月まことイラスト・長唄「元禄花見踊」踊る侍のイメージ


明治21(1888)年「演劇改良会」は自然消滅、理念は「演芸矯風会=日本演芸協会」へ引き継がれました。が、走り出した歌舞伎の高級化は止まりません。

明治22(1889)年には「演劇改良会」の福地桜痴(ふくちおうち)が実業家・千葉勝五郎(貸金業、1833~1903)の資金を頼りに「歌舞伎座」を開場します。洋風休憩室つきの貴賓席を備え、3階にひと幕見用の桟敷を抱えた西洋式の劇場で、看板役者「団菊佐(団十郎、菊五郎、左団次)」は新富座からのレンタルでした。しかし金策に尽きた福地桜痴(ふくちおうち)はすぐに座付作者に転身、貸金業・千葉勝五郎直接の経営が始まります(経営コンサルタントへ業務委託)。明治44(1911)年には帝国劇場が建設され、歌舞伎役者が専属俳優に就任しました。梨園が大衆を忘れたのではありません。天覧歌舞伎の栄誉を経て、歌舞伎と歌舞伎役者の価値があがった結果、大資本の投資対象になってしまっただけなのです。

大資本に翻弄される江戸歌舞伎界は、近代的な劇場に足を運んでくれる近代的な観客を満足させるため、さらなる高級化を志向し古典改良をすすめます。言い換えればそれ以外、歌舞伎界には進む道がありませんでした。歌舞伎界が時流を無視したわけではありません。川上音二郎(オッペケペー節で知られる興行師、1864~1911年)の「戦争劇」が流行(はや)れば「戦争劇」を出し、戦争中は政府の要請に従い「国策劇」を出しました。それでも、観客に評価されるのは伝統的な古典改良作品ばかりでした。4代目 坂田藤十郎氏(1931~2020年)や5代目 坂東玉三郎氏(1950年~)、18代目 中村勘三郎氏(1955~2012年)は、まだ生まれてもいません。経済界や歌舞伎界自身が、高級志向の観客を本当の意味で満足させ得る文化財は、劇場や演目ではなく梨園の役者そのものなのだという発見に至るのは、やっと第二次世界大戦後のことです。

そういう意味では、明治11(1878)年6月の「元禄花見踊」は、大衆演劇としての江戸歌舞伎界が放った、最後の大玉花火でした。作曲者・3代目 杵屋正次郎(きねやしょうじろう)の奔放すぎる旋律、作詞者・竹柴瓢助の工夫に秘められた激しい怒り、演じた歌舞伎役者たちの町衆衣装へのこだわりと演目愛は、考えてみればすべてがどこか鬼気迫るものがあります。版権(著作権)を主張した河竹黙阿弥も含め関係者全員が、「元禄花見踊」の花道が庶民の代表として踏む最後の花道であることを、なんとなくわかっていたのかもしれません。



 /// 長唄「元禄花見踊」は、どうしてこんなにエロいのか 

ご存知のとおり「元禄花見踊」の歌詞は、終わりまぢか急激に色っぽくなります。

元禄花見踊(竹柴瓢助/杵屋正次郎)

腰に瓢箪(ひょうたん) 毛巾着(けぎんちゃく)
酔うて踊るが ヨイヨイよいよいよいやさ
武蔵名物 月のよい晩は 御方鉢巻(おかたはちまき) 蝙蝠羽織(こうもりばおり)
無反角鍔(むぞりかくつば) かく内連れて
ととは手細(てぼそ)に伏編笠(ふせあみがさ)
踊れ踊れや 布搗(つ)く杵(きね)
小町踊(こまちおどり)の 伊達(だて)道具 ヨイヨイヨイヨイよいやさ 面白や


(現代語訳)
瓢箪(ひょうたん)を腰に下げて男が踊れば、酔った女が寄ってくる。
酔って踊るが、ヨイヨイ良いと言うものさ。
武蔵国(むさしのくに、江戸のこと)名物、名月の晩には、
紫ハチマキを頭に置いた蝙蝠羽織(こうもりばおり)の若衆が
反りのない刀身に角鍔(かくつば)をはかせた飾り刀を腰に下げ、下男をお供(とも)に出かけて行く。
年長ととさま役は細い手拭(てぬぐい)に伏編笠(ふせあみがさ)で顔を隠し、
踊れ踊れや 杵(きね)でもって布を突き、存分に、楽しむが良い。
若衆の杵(きね)は七夕の夜には娘衆にも、伊達(だて)な遊び道具になることだろう。

→注解はこちらのページ

「腰に瓢箪(ひょうたん)毛巾着(けぎんちゃく)」は、「男性=瓢箪(男性器の隠語)と女性=毛巾着(女性器の隠語)」の出会い(性交)をあらわしており、非常にあからさまな性表現です。この部分から「小町踊(こまちおどり)」までは「竹斎(ちくさい)」寛永ごろ製版本に登場する衆道(しゅどう、江戸時代のホモセクシュアル)の恋人たちと、竹柴瓢助が書き添えた結合した男女恋人たちを、「存分に楽しめ」と応援するような内容です。さらには「小町踊(こまちおどり)」の少女たちに若い男(若衆)の杵(きね、男性器の隠語)で遊べ、とまで推奨します。ちなみに、「小町踊(こまちおどり)」は京都をはじめとして日本各地で踊られた盆踊りの一種と思われていますが、文化人類学的には女性が成人したことを宣言する風流踊(室町ごろから流行した、風変わりな衣装を着て、集団で移動しながら踊るムーブメント)もしくは念仏踊(ねんぶつおどり、仏教信仰を広めるための風流踊)であって、一種の成人式にあたります。つまり、お盆の仏さま供養に少女たちが群れをなして踊ることは(小町踊)、その少女たちが「夜這い解禁になった」ことを村の男性たちに宣言する意味があったのです。

この歌詞の直前「黒い盃」が登場していることをかんがみるに、この部分で竹柴瓢助が言いたかったことは「生き残った若者たちよ、恋をしろ。男でも女でもどちらでも良い。とにかく抱き合って、人生をやりすごせ」と、いうところでしょうか。

(写真)現存する上野寛永寺の「黒門」
上野寛永寺の黒門(南千住円通寺に保存)


このあと、唄は「永当(えいとう) 東叡(とうえい)人の山 弥(いや)が上野の花盛り 皆清水(みなきよみず)の新舞台」と、続きます。要するに、「えいっと自分に掛け声をかけて、人の山にまじわるんだ。いやな世の中だけど、それでも生きて上野の山に花を添えようじゃないか。ひとりじゃない。誰だってみんな同じように、あたらしい清水(きよみず)の舞台の上で生きているんだ。いつ転落するかなんてことは、誰にだってわからない」と、続けるのです。

この部分に、『竹斎(ちくさい)』寛永ごろ製版本に登場する恋人たちが使われていることは重要です。この衆道の若者たちはふたりともどこかの武家の旗本で、おそらくどちらも小姓組(SPのような組織)、「御方さま」と呼ばれる少年の方が身分が高く年齢は17歳ぐらい(数え)です。ひと夜をともにすごしたあと、少年が「お互いに立場があるので恋人同士にならず、父子になって手紙のやりとりをしよう」と、若侍に提案します。でも、風邪をひいて死んでしまうのです。若侍はあとを追って自害すると決め、それでも恋しい相手の初七日を弔いたくてとどまっているうち、ことが露見。寄親(よりおや、さむらいの統括制度)と主君に激しく責められ、腹を切ることができません。結局、若侍は出家し、ひっそりと姿を消すのです。

(伝承本)かな草子『竹斎』寛永ごろ製版本の挿絵
かな草子『竹斎』寛永ごろ製版本より、床入り前の契りの盃を交わす若衆と若侍


ある彰義隊の隊士は官軍の銃弾に倒れ、上野の山の芝生の上で死に掛けていたところ近くの農家の人々に助け出されました。その農家の人々が言うには「何十人も倒れている人を運んできたけれど、息を吹き返したのはたったひとり」と。

正気に返ってすぐ生家に使いを出しますが、家では両親が揃って自害を遂げており、連れ立って彰義隊に参加した兄と弟は死んでいました。自分も死のうと思ったけれど農家の人々に交代で見張られて死にきれず、家は取り潰しとなり、たった17歳で天涯孤独の一文無しになりました。それでも何故か士分だけは許されたので、明治維新後は警官となって、恩返しのため江戸町衆を守りました。町の人が気にかけてくれて嫁をあてがわれ、やがて男子に恵まれます。ときどき、噂を聞いて新聞記者が尋ねて来ましたが、全部追い払ってしまったそうです。人に問われて答えたのは、いつもひと言「ただ、生きているだけです」と。30歳を迎える手前で流行(はや)り病になり、すぐ死んでしまいました。

生涯一度も笑わなかったそうですが、子どもの世話はよくみたそうです。この人の子も孫も、結局三代続いて警官になり、江戸町衆への恩返しをやり遂げました。

筆者の昔の知人の曽祖父に当たる方の話で、実話です。


Kabuki Genrokuhanamiodori : 上月まこと画、長唄「元禄花見踊」惣踊り
上月まことイラスト・長唄「元禄花見踊」惣踊りのイメージ


→全歌詞と全現代語訳はこちらのページ

無血開城でしたが、維新前後の江戸には武家の自死が溢れていました。なかでも、未来を悲観し死を選びがちな士族の若者たちを、竹柴瓢助は憂えたのかもしれません。「ただ生きてくれるだけで良い、一生笑えなくても良い。清水(きよみず)の舞台から一緒に下を覗いてくれるだけで良いから、今はただ、ただ生きて欲しい」という、竹柴瓢助の魂の叫びが聞こえます。


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上月まこと

本文・イラストともに上月まこと。一部パブリックドメインの写真や絵画を利用しています。Copyright ©2020- KOUDUKI Makoto All Rights Reserved.




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