記事まとめ
- 吾妻路(あづまじ)を
- 都の春に志賀山の 花見小袖の 縫箔(ぬいはく)も
- 華美(はで)をかまはぬ
- 伊達染(だてぞめ)や
- よき琴菊(こときく)の判じ物
- 連れて着つれて行袖(ゆくそで)も
- たんだ振れ振れ 六尺袖の
- しかも鹿の子の 岡崎女郎衆
- 裾に八つ橋染めても見たが
- そさま紫色も濃い
- 手先揃へてざざんざの
- 花と月とは どれが都の眺めやら
- 冠衣眼深(かつぎまぶか)に
- 二條通の百足屋(にじょうどほりのむかでや)が
- 花見するとて熊ヶ谷笠よ
- 月に兎は和田酒盛の
- 腰に瓢箪(ひょうたん)毛巾着(けぎんちゃく)
- 武蔵名物月のよい晩は
- ととは手細(てぼそ)に伏編笠(ふせあみがさ)で
- 踊れ踊れや布搗(つ)く杵(きね)も
- 入り来る入り来る桜時(さくらどき)
長唄「元禄花見踊」は、同「猿舞」、同「花見」と、かな草子「竹斎(ちくさい)」をかけあわせた内容の唄です。比較表を作ってみました。「記事まとめ」は「頭出し」として使ってください。
→元ページ・長唄「元禄花見踊」リンク
元禄花見踊(竹柴瓢助/杵屋正次郎) | |
吾妻路(あづまぢ)を | |
シンボル→イメージ | 地域・時代など |
吾妻路 →京都から東へくだる、落剥する、伊勢から東海道をくだる |
東海道 ・東くだり ※伊勢物語、源氏物語など。 ・海道くだり ※竹斎や狂言小舞「越後聟 (えちごむこ) 」など。 |
長唄「猿舞」(4代目 杵屋六三郎作、文政2年=1819年河原崎座で初演) | |
豊臣秀吉をモデルにした「出世奴」の物語なので、「奴行列の唄」が登場し、御油宿(現在の愛知県豊川市)、赤坂宿(同)、吉田宿(現在の愛知県豊橋市)を通過するだけの、中途半端な「海道くだり」が挿入される。 ※奴行列は参勤交代の送り迎えが目的のため。 歌詞「晩の泊まりは御油(ごゆ)赤坂に 吉田通ればナア 二階から招くしかも鹿の子の振袖が」 御油宿・赤坂宿は現在の愛知県豊川市、吉田宿は現在の愛知県豊橋市。この吉田宿か、吉田宿を通過した先の岡崎宿で奴島田に丈長(たけなが=髪飾り)を掛けた傀儡女(かいらいめ)に二階から振袖で誘われ、奴の廓通いが始まった。 |
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長唄「花見」(小野川檢校作、元禄期=1688~1704年に活躍) | |
物語は江戸の上野山から始まる。 歌詞「花の香に衣は深くなりにけり 木の下かげの風のまにまに 八重の霞にいや高き 恵みになにか上野山」 「花の香りが深くなれば、衣の色(情愛)も深くなって、小枝の下を吹き抜ける風のまにまに、高い上野の山が天の恵みのように、八重に重なる霞のあいだから顔を出す」と、いう意味。 この上野山の花見席で、廓の女たちと粋客の色っぽいやり取りがくりひろげられる。 |
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かな草子「竹斎」(烏丸光廣もしくは磯田道冶作、1621~1623年成立) | |
都(みやこ)に住む「やぶくすし(藪医者)竹斎(ちくさい)」が貧乏に飽きて江戸移住を決断、「海道くだり」前の見納めの京都見物で北野天満宮の「貴賤群集(きせんくんじゅ)限りなく」という、身分の入り乱れた開放的な花見風景に遭遇する。 |
元禄花見踊(竹柴瓢助/杵屋正次郎) | |
都の春に志賀山の 花見小袖の 縫箔(ぬいはく)も | |
シンボル→イメージ | 地域・時代など |
都の春・志賀山 →大津の都、伊勢物語、東くだり 志賀山 →江戸・元禄期に創生した「志賀山流」 縫箔(ぬいはく) →豪華な衣装、伊達者、伊達巻(腰巻丹前) |
東海道 ・東くだり ※伊勢物語、源氏物語など。 ・海道くだり ※竹斎や狂言小舞「越後聟 (えちごむこ) 」など。 |
長唄「猿舞」(4代目 杵屋六三郎作、文政2年=1819年河原崎座で初演) | |
長唄「花見」(小野川檢校作、元禄期=1688~1704年に活躍) | |
歌詞「お側に引きそふ伽比丘尼(とぎびくに) 紺に鬱金(うこん、オレンジに近い黄色)に浅黄(あさぎ、薄い黄色)に鹿の子」 売笑とお伽ばなしが売り物の伽比丘尼は、紺地に鬱金(うこん)や浅黄(あさぎ)を合わせ、紫の鹿の子絞を置いた豪華な衣装を身に着けている。 |
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かな草子「竹斎」(烏丸光廣もしくは磯田道冶作、1621~1623年成立) | |
北野天満宮の花見で盛り上がった御殿女中たちが、帰りがけ由緒ある寺を訪問。ちょうど寺にいた住職(上人)が出てくるが、その衣装は、緋色の紗綾織(さやおり)の袷(あわせ)を肌着に、鹿の子まだらで紫の藤の花を縫箔(ぬいはく)にした短い小袖を肩から捻り下げ、緋縮緬の御衣(おんぞ)に錦紗(きんしゃ)を交ぜて打った真紅の紐帯という、赤一色の派手で豪華なものだった。 |
元禄花見踊(竹柴瓢助/杵屋正次郎) | |
華美(はで)をかまはぬ | |
シンボル→イメージ | 地域・時代など |
かまはぬ →市川団十郎の役者紋「鎌輪奴」 市川団十郎 →江戸・元禄期に現われ野郎歌舞伎の型を創った江戸歌舞伎創始者 |
三味線組歌「~づくし」 ※ここでは「紋づくし」 |
長唄「猿舞」(4代目 杵屋六三郎作、文政2年=1819年河原崎座で初演) | |
歌詞「昔模様の派手奴 これかまわぬ始めなり」 長唄「猿舞」はもとは「奴江戸花槍(やっこやっこえどのはなやり)」という芝居の一部で外題「三升猿曲舞(しかくばしらさるのくせまい)」、この場面では「奴の猿冠者(さるかじゃ)」を演じる七代目 市川団十郎を、目立たせる必要があった。ちなみに「鎌輪奴(かまわぬ)」の役者紋は七代目本人の意匠。 狂言上は「奴」が深編笠(ふかあみがさ)に巻き端折り(まきばしょり、伊達巻=腰巻丹前)で廓(くるわ)通いする姿を「昔っぽい装いの派手な奴」と揶揄され、それを「かまわぬ」と退ける流れ。 |
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長唄「花見」(小野川檢校作、元禄期=1688~1704年に活躍) | |
歌詞「根笹やかくい(角井) 松の尖杭(とぐい)でな 足突き立てて うづきづきづき うづきにうづき」 「根笹(ねざさ)、積み上げた井桁(いげた)、尖がった松杭(まつぐい)で足を突いてしまい、疼いてづきづき、卯月(うずき、4月)に疼いて」 根笹、角井(かくい、三角井桁や六角井桁など)、松、杭(くい)、足(日足紋)、は家紋の印章。ちなみに「松杭(まつぐい)」は古代から現代まで使われている、わが国の土木建築の基礎杭。 |
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かな草子「竹斎」(烏丸光廣もしくは磯田道冶作、1621~1623年成立) | |
元禄花見踊(竹柴瓢助/杵屋正次郎) | |
伊達染(だてぞめ)や | |
シンボル→イメージ | 地域・時代など |
伊達 →派手な衣装、伊達巻(腰巻丹前)、風流 ※「風流」は何かを象った風変わりな衣装をつけること、「風流踊」は揃いの奇抜な衣装を着て大勢で道行する踊り、舞踊というより舞踏に近い。ヨサコイや花笠踊りなど。 |
戦国時代~江戸時代初期 ※「伊達染」は江戸時代初期に流行したらしい着物の柄で、染色技法としては存在しない。 |
長唄「猿舞」(4代目 杵屋六三郎作、文政2年=1819年河原崎座で初演) | |
歌詞「留(と)めてとまらぬ恋の道 馬場先のきやれ 色めく飾りの伊達道具」 「恋の道は、止めようとして止まらない。そこの馬止め退(の)いてくれ、色っぽく飾られた伊達道具、俺の木槍(花槍)のお通りだ!」という意味。 |
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長唄「花見」(小野川檢校作、元禄期=1688~1704年に活躍) | |
歌詞「彦惣女房(ひこもにょうぼう)は伊達(だて)こきこきで 小褄掻(こづまか)いどり しゃらしゃら行(ゆ)きて」 「彦惣の女房なんざ伊達(だて)こきこきで、左妻(ひだりづま)とって、しゃらしゃら行くよ」 彦惣女房(ひこもにょうぼう)は鶴屋南北作の歌舞伎狂言「古今彦惣(こきんひこそう)」の登場人物。廓(くるわ)に売られる。 |
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かな草子「竹斎」(烏丸光廣もしくは磯田道冶作、1621~1623年成立) | |
元禄花見踊(竹柴瓢助/杵屋正次郎) | |
よき琴菊(こときく)の判じ物 思ひ思ひの出立栄(でたちばえ) | |
シンボル→イメージ | 地域・時代など |
よきこときく →尾上菊五郎の役者紋「斧琴菊」 判じ物 →なぞなぞ、庶民の遊び |
庶民の遊び ※なぞなぞ、だじゃれ、など |
長唄「猿舞」(4代目 杵屋六三郎作、文政2年=1819年河原崎座で初演) | |
歌詞「鞠の庭にも猿の神」 蹴鞠の達人・藤原成通(ふじわらのなりみち、1097~1162年)が、猿の姿の三柱の蹴鞠の精に出会った伝説(「古今弔問集)。 歌詞「さらば引かせん山王の 桜に猿が三下り 手に手 手に手 の合いの手や」 江戸時代に流行った地口狂歌(駄洒落の狂歌)も登場。 |
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長唄「花見」(小野川檢校作、元禄期=1688~1704年に活躍) | |
歌詞「さてそれぞれの幕の内 茶の湯まつかぜ染模様 難波に刈るや 葭蘆(よあし)の 土佐を語らぬ幕もなし」 「葭蘆(よあし)」とは大阪・淀川に広がる広い葦原のこと、「土佐日記」の歌枕のひとつになっている。「それぞれの花見幕の内では茶の湯の席がもうけられ、難波の芦原が云々と、土佐日記の歌を語っている」ということ。ただし典雅に「土佐日記」風に表現しているだけで、その実、幕内で語られているのは「土佐浄瑠璃」だという意見もある<文政8(1830)年刊「嬉遊笑覧」巻之七 行遊>。 花見幕の中で、茶の湯と連歌遊びが行われているのだ。 |
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かな草子「竹斎」(烏丸光廣もしくは磯田道冶作、1621~1623年成立) | |
北野天満宮の花見では、連歌の座が催されたり、若者が蹴鞠をしたり、あちらこちらで双六(すごろく)、博打(ばくち)、香合わせなどの遊びが行われている。 |
元禄花見踊(竹柴瓢助/杵屋正次郎) | |
連れて着つれて行袖(ゆくそで)も | |
シンボル→イメージ | 地域・時代など |
連れて着つれて →花笠衆、住吉踊、傀儡師、風流踊 ※「風流」は何かを象った風変わりな衣装をつけること、「風流踊」は揃いの奇抜な衣装を着て大勢で道行する踊り、舞踊というより舞踏に近い。ヨサコイや花笠踊りなど。 |
住吉信仰 傀儡師 遊郭(傀儡女) 桜の名所 ※寺社仏閣のない山などには、氏子檀家獲得のため各地の寺社仏閣が氏子代表の花笠衆を遠征させて、住吉踊などの風流踊を披露した。遠征隊の氏子代表は多くの場合、土着した傀儡師が請け負っていた。また、近くの遊郭が女歌舞伎の一座を組んで宣伝のため歌舞音曲を披露したほか、猿廻しや人形廻しなど、大道芸を見せる傀儡師(かいらいし)が集結して芸を競い合った。 |
長唄「猿舞」(4代目 杵屋六三郎作、文政2年=1819年河原崎座で初演) | |
長唄には残らなかったが、もとの演目・「三升猿曲舞(しかくばしらさるのくせまい)」には下記の歌詞がある。 歌詞「さらば引かせん山王の 桜に猿が三下り 手に手 手に手 の合いの手や」。 江戸時代に流行った地口狂歌(駄洒落狂歌)で、元は「山王の 桜に三猿 三下がり 合の手と手と 手手と手と手」、テトテトテテトテトテは三味線の音色(=三味線譜)。要するに、この猿は桜の下で、調子(キー)を「三下(さん さ)がり」に合わせた三味線に乗って踊っている。「猿廻し」の猿のこと。 |
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長唄「花見」(小野川檢校作、元禄期=1688~1704年に活躍) | |
歌詞「花か蝶かとうち群れて 桜散り積む菅笠やさし ほんにゆかし」 「いずれが花か蝶やら区別つかないほど群らがって踊る花笠衆の、菅笠の上には散った桜が降り積もって優雅なこと。ほんとうにずっと見ていたい」と、いう意味。 花を翳(かざ)した揃いの菅笠と揃いの着物が、花笠衆の代名詞だった。 |
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かな草子「竹斎」(烏丸光廣もしくは磯田道冶作、1621~1623年成立) | |
北野天満宮の花見で遊女遊君たちが集まって三味線や胡弓を奏(かな)でると、石村検校(琉球組など表組)が狂言小歌を唄うのを見たり、能楽はやし方と能役者たちの楽しそうな宴(うたげ)を目撃する。 |
元禄花見踊(竹柴瓢助/杵屋正次郎) | |
たんだ振れ振れ 六尺袖の | |
シンボル→イメージ | 地域・時代など |
たんだ振れ振れ 六尺袖の →室町小唄、遊女、傀儡女(かいらいめ)、風流 ※「風流」は何かを象った風変わりな衣装をつけること、「風流踊」は揃いの奇抜な衣装を着て大勢で道行する踊り、舞踊というより舞踏に近い。ヨサコイや花笠踊りなど。 |
全国の街道すじ ※東海道の宿場町で、傀儡女(かいらいめ)が客引きするさま |
長唄「猿舞」(4代目 杵屋六三郎作、文政2年=1819年河原崎座で初演) | |
鹿の子絞りの豪華な振袖に惹かれ、奴が廓へ引きこまれる。 | |
長唄「花見」(小野川檢校作、元禄期=1688~1704年に活躍) | |
歌詞「これの小よねに とんとつとんと絆(ほだ)された やすいこと 其方(そち)でおうちやれ ちょんちょんおけさ おきのとなかに とんとととんと どっこいいよ すてすて小舟の すてすてられては立ち申さぬ」 売笑とお伽話が売り物の「伽比丘尼(とぎびくに)」にトントツトンと口説かれた。「おやすいこと、その幕の陰で、どうぞお好きにしてくださいな、チョンチョンオケサ。だってこんな沖の真ん中で、トントトトント、ドッコイショしておいてから、小舟を捨てるのはよくないことよ。捨て捨てられては女も男も、あちこち面子(めんつ)が立ちませぬ」と言われたのでな、というような意味。 売笑比丘尼が、男を誘う場面。 |
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かな草子「竹斎」(烏丸光廣もしくは磯田道冶作、1621~1623年成立) | |
元禄花見踊(竹柴瓢助/杵屋正次郎) | |
しかも鹿の子の 岡崎女郎衆(振袖模様、になる場合もある) | |
シンボル→イメージ | 地域・時代など |
鹿の子 →鹿の子絞(染色法)で着飾った女郎衆(傀儡女) 岡崎女郎衆 →浄瑠璃姫伝説の聖地「岡崎」、岡崎宿の傀儡女(かいらいめ)たち |
東海道 愛知 ・有松 ・鳴海 ・有松鳴海絞 ・岡崎 ・三味線練習曲「岡崎女郎衆はゑい女郎衆」 |
長唄「猿舞」(4代目 杵屋六三郎作、文政2年=1819年河原崎座で初演) | |
歌詞「晩の泊まりは御油(ごゆ)赤坂に 吉田通ればナア 二階から招くしかも鹿の子の振袖が」 御油宿・赤坂宿は現在の愛知県豊川市、吉田宿は現在の愛知県豊橋市。この吉田宿か、吉田宿を通過した先の岡崎宿で奴島田に丈長(たけなが=髪飾り)を掛けた傀儡女(かいらいめ)に二階から振袖で誘われ、奴の廓通いが始まった。 |
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長唄「花見」(小野川檢校作、元禄期=1688~1704年に活躍) | |
歌詞「お側に引きそふ伽比丘尼(とぎびくに) 紺に鬱金(うこん、オレンジに近い黄色)に浅黄(あさぎ、薄い黄色)に鹿の子」 紺地に鬱金や浅黄を合わせ紫の鹿の子絞を置いた小袖の売笑比丘尼が、得意の情愛でもって客をもてなす。 |
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かな草子「竹斎」(烏丸光廣もしくは磯田道冶作、1621~1623年成立) | |
北野天満宮の花見で盛り上がった御殿女中たちが、帰りがけ由緒ある寺を訪問、ちょうど寺にいた住職(上人)が出てくるが、その衣装は、緋色の紗綾織(さやおり)の袷(あわせ)を肌着に、鹿の子まだらで紫の藤の花を縫箔(ぬいはく)にした短い小袖を肩から捻り下げ、緋縮緬の御衣(おんぞ)に錦紗(きんしゃ)を交ぜて打った真紅の紐帯という、赤一色の派手で豪華なものだった。 |
元禄花見踊(竹柴瓢助/杵屋正次郎) | |
裾に八つ橋染めても見たが ヤンレほんぼにさうかいナ | |
シンボル→イメージ | 地域・時代など |
八橋 →東くだり、伊勢物語、杜若(かきつばた) |
東海道 愛知 ・知立(ちりゅう) ・豊橋 |
長唄「猿舞」(4代目 杵屋六三郎作、文政2年=1819年河原崎座で初演) | |
長唄「花見」(小野川檢校作、元禄期=1688~1704年に活躍) | |
かな草子「竹斎」(烏丸光廣もしくは磯田道冶作、1621~1623年成立) | |
三年名古屋で暮らした竹斎(ちくさい)は、心が落ち着かなくなって再び旅路の人となる。熱田から鳴海宿へ行って一泊、岡崎宿を越えて赤坂宿(現在の豊川市)に一泊、翌日は吉田宿(現在の豊橋市)へ向かい二川(ふたがわ)に着いたところでちょっと足をのばして八橋(やつはし)を訪れる。 ところで、この八橋の段を読む人は、みな一様に首をひねる。 知立(ちりゅう)市にある歌枕・八橋は、豊橋市からちょっと寄るには遠すぎる。竹斎(ちくさい)が訪れたのは、知立(ちりゅう)市にある八橋ではなく、豊橋市岩田町の八ツ橋なのではないか(現在は田んぼだが、戦国時代は沼地で板の橋が縦横に架け渡されていた?)。 |
元禄花見踊(竹柴瓢助/杵屋正次郎) | |
そさま紫色も濃い ヤンレそんれはさうぢゃいナ | |
シンボル→イメージ | 地域・時代など |
紫 →情愛の色、遊女・遊君・傀儡女(かいらいめ) 色が濃い →情愛・情けが濃い |
江戸 ・広い平原 ・武蔵野 ※江戸は武蔵国(むさしのくに、現在の東京・埼玉・神奈川県川崎市と神奈川県横浜市)に属していた ※「武蔵野=紫」が定番になったのは、下記の唄が流行したせい「紫のひともとゆゑに武蔵野の草はみながらあはれとぞ見る」古今集17雑 |
長唄「猿舞」(4代目 杵屋六三郎作、文政2年=1819年河原崎座で初演) | |
長唄「花見」(小野川檢校作、元禄期=1688~1704年に活躍) | |
歌詞「花の香に衣は深くなりにけり」 「花の香りが深くなれば、衣の色(情愛)も深くなって」という意味。 |
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かな草子「竹斎」(烏丸光廣もしくは磯田道冶作、1621~1623年成立) | |
八橋に着いた竹斎が在原業平(伊勢物語)が詠んだという杜若(かきつばた)の歌に思いを馳せ、今はもう見る人もいなくなった花をあわれんでいると、里人がやって来て「昔はもっと色が濃かったのですが、今は薄くなってしまいました」と言う。昔の人は情愛が濃かったのに、今の人は薄情だと言うのだ。 竹斎(ちくさい)は里人に同意し、「花の色だけは、昔どおりであってほしい」という狂歌を残す。 |
元禄花見踊(竹柴瓢助/杵屋正次郎) | |
手先揃へてざざんざの 音は浜松 よんやさ | |
シンボル→イメージ | 地域・時代など |
ざざんざの 音は浜松 →嵐、強い風音、室町小唄、狂言小歌 |
東海道 静岡 ・浜松 |
長唄「猿舞」(4代目 杵屋六三郎作、文政2年=1819年河原崎座で初演) | |
長唄「花見」(小野川檢校作、元禄期=1688~1704年に活躍) | |
歌詞「ひょひょひょと浮かれた花ゆゑに ひょっくりひょ 峰の嵐とな」 花見小袖をかけまわした花見幕の中で、腰に瓢箪を下げた親父が滑稽に踊ると「花がうかれて浮き上がり、強い風が吹いたごとく幕の峰(紐)を揺らした」情景。 |
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かな草子「竹斎」(烏丸光廣もしくは磯田道冶作、1621~1623年成立) | |
本文「ね入られもせぬ浜松の はげしく落つる夜嵐(よあらし)に」 静岡の新居町から舞阪町まで舟で渡って浜松に入り仮寝の宿をとるが、風の音で寝られない。浜松は「嵐」の縁語になるほど風が強いらしい。 |
元禄花見踊(竹柴瓢助/杵屋正次郎) | |
花と月とは どれが都の眺めやら | |
シンボル→イメージ | 地域・時代など |
花と月 →「花」はいっときの奇縁、「月」は永劫不滅の奇縁の象徴 ※「かな草子」の世界観 わきて節 →「AとBとは、どれが~やら。どうやらこうやらわきて」で始まり、「AやらBやら、わきて」で終わる、端歌の形式<松の葉集、京鹿の子娘道成寺など>。 |
仏教の教え ・猿猴捉月(えんこうそくげつ) |
長唄「猿舞」(4代目 杵屋六三郎作、文政2年=1819年河原崎座で初演) | |
歌詞「水の月取る猿沢(さるざわ)の 池の漣(さざなみ)ゆうゆうたり」 猿沢池(さるざわいけ)は奈良県春日山のふもとにある池で、この池を中国の仏書「摩訶僧祇律(まかそうぎりつ)」記載の、「500匹の猿が手をつないで木からぶら下がり、池の月影を盗ろうとした」故事の舞台に見立ててる。※「猿猴捉月(えんこうそくげつ)」 |
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長唄「花見」(小野川檢校作、元禄期=1688~1704年に活躍) | |
歌詞「時めくさとの家桜 けふも暮れぬと 告げわたる 告げわたる」 唄の後半は日が暮れたあと、吉原へ向かう高速船(猪牙舟=ちょきぶね、山谷舟ともいう)が桜の下で先陣を争う様子が描かれる。 |
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かな草子「竹斎」(烏丸光廣もしくは磯田道冶作、1621~1623年成立) | |
「竹斎」寛永ごろ製版本で挿入された「播磨侍が黒谷で切腹未遂する」エピソードでは、ご大身(たいしん)の小姓を勤める若衆に恋をした若侍(「郎等」とあるので、身分はさほど低くない)が、「春の花の梢(こずえ)を飾り、秋の月の水に澄めることも みなこれ げゞ 衆生のため也」と言う。要するに花は一過性の奇縁、月は永劫不滅の奇縁の象徴らしい。 かつ、若侍が恋しい相手を「月」と見立て「手の届かない人」と歎(なげ)く一節がある。また、恋文を手渡すことを決意すると、この男は「猿猴捉月(えんこうそくげつ=月影を盗もうとする猿)」の図象を染めた袷(あわせ)の着物を身に着ける。 |
元禄花見踊(竹柴瓢助/杵屋正次郎) | |
冠衣眼深(かつぎまぶか)に 北嵯峨御室(きたさがおむろ) | |
シンボル→イメージ | 地域・時代など |
冠衣(かづき) →身分の高い女性、公家の女王(ひめみこ)、上臈(じょうろう、御殿女中)、花見幕の中での花見 御室(おむろ) →御室仁和寺(御室御所) |
御所・御殿 公家・公達 桜の名所 |
長唄「猿舞」(4代目 杵屋六三郎作、文政2年=1819年河原崎座で初演) | |
長唄「花見」(小野川檢校作、元禄期=1688~1704年に活躍) | |
歌詞「風に漂ふ幕の内 てりこそてりぬか てりましこ」 風に漂って揺れる花見幕の隙間から、何かがキラキラ、キラキラ輝いている。 |
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かな草子「竹斎」(烏丸光廣もしくは磯田道冶作、1621~1623年成立) | |
北野天満宮の花見では、身分の高い公家衆は小袖をつなげた花見幕の中で楽しんでいる。 |
元禄花見踊(竹柴瓢助/杵屋正次郎) | |
二條通の百足屋(にじょうどほりのむかでや)が 辛気(しんき)こらした真紅の紐を 袖へ通してつなげや桜 疋田(ひった)鹿の子の小袖幕(こそでまく) 目にも綾(あや)ある 小袖の主の顔を見たなら 猶(なお)よかろ ヤンレそんれはへ |
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シンボル→イメージ | 地域・時代など |
二條通の百足屋 →京都の二条の百足屋町にあったらしい組紐の店、戦国時代までの紐帯文化の象徴。 疋田(ひった)鹿の子 →京鹿の子(絹を使った鹿の子絞)の代表格 |
京都 ・百足屋町 ・疋田(ひった)鹿の子 |
長唄「猿舞」(4代目 杵屋六三郎作、文政2年=1819年河原崎座で初演) | |
長唄「花見」(小野川檢校作、元禄期=1688~1704年に活躍) | |
歌詞「名は懐かしき やり衆槍梅 姿かたちは横太り みどりたよりは髪結ひかえて 野暮に身をなす 抱え帯 禿(かむろ)それそれ髢(かもじ)が落ちた」 槍梅文様の野暮な抱え帯をした禿(かむろ)の、頭の詰め物が落ちたと面白がっている。江戸時代のはじめには、布を重ねた厚みのある帯は野暮ったく見えたらしい。 |
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かな草子「竹斎」(烏丸光廣もしくは磯田道冶作、1621~1623年成立) | |
北野天満宮の花見で盛り上がった御殿女中たちが、帰りがけ由緒ある寺を訪問、ちょうど寺にいた住職(上人)が出てくるが、その衣装は、緋色の紗綾織(さやおり)の袷(あわせ)を肌着に、鹿の子まだらで紫の藤の花を縫箔(ぬいはく)にした短い小袖を肩から捻り下げ、緋縮緬の御衣(おんぞ)に錦紗(きんしゃ)を交ぜて打った真紅の紐帯という、赤一色の派手で豪華なものだった。 |
元禄花見踊(竹柴瓢助/杵屋正次郎) | |
花見するとて 熊ヶ谷笠よ 飲むも熊谷 武蔵野で御座れ |
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シンボル→イメージ | 地域・時代など |
熊ケ谷笠 →武士が利用する深編笠、おしのび 熊谷 →大きな盃 武蔵野 →特大の盃、江戸、ひろい草原 |
江戸 埼玉 ※江戸と埼玉は同じ武蔵国 |
長唄「猿舞」(4代目 杵屋六三郎作、文政2年=1819年河原崎座で初演) | |
長唄「猿舞」はもとは「奴江戸花槍(やっこやっこえどのはなやり)」という芝居の一部で外題「三升猿曲舞(しかくばしらさるのくせまい)」。 狂言では「奴」は深編笠(ふかあみがさ)に巻き端折り(まきばしょり、伊達巻=腰巻丹前)で、廓(くるわ)通いをする。 |
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長唄「花見」(小野川檢校作、元禄期=1688~1704年に活躍) | |
歌詞「お名をば え申すまいのよ しゃんしゃんしゃんと指いたる長刀」 遊郭に遊ぶとき、武士は顔を隠し、名は名乗らない。 |
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かな草子「竹斎」(烏丸光廣もしくは磯田道冶作、1621~1623年成立) | |
「竹斎(ちくさい)」寛永ごろ製版本で挿入された「播磨侍が黒谷で切腹未遂する」エピソードでは、衆道の恋人たちはふたりとも武士で、床入り前に契りの盃を交わす。ふたりが床入りするのは若侍が借りている京都市内の宿で、地名は記されていないが草深いところ。 |
元禄花見踊(竹柴瓢助/杵屋正次郎) | |
月に兎は和田酒盛の 黒い盃闇でも嬉し | |
シンボル→イメージ | 地域・時代など |
和田酒盛 →幸若舞「和田酒盛」 黒い盃 →吾妻鏡、兄・源頼朝による、弟・源義経討伐と、源義経の首実験 ※源義経の首は美酒で浸した黒い櫃(ひつ、桶)に入っていた(「吾妻鏡」)。 ※鈴木高朗妻「江嶋諸往来紀」(「片玉集」巻67)によると、源頼朝は源義経の首実検をした和田義盛へ、「和田酒盛」と銘した黒塗りの盃を贈っている。この盃は霞に月・波に兎・岩などの金の蒔絵が施されていた。 ※首実検を行った和田義盛と梶原景時は、ともに味方の裏切りによって滅んだ。 |
吾妻鏡 奥州藤原 鎌倉 幸若舞「和田酒盛」 ※幸若舞「和田酒盛」は「思いざし」和田吉盛(和田義盛)と曾我十郎助成が、長者の娘・虎御前の「思いざし」を巡って争い、そこへ十郎の弟・曾我五郎時宗が加勢に駆けつける物語。 |
長唄「猿舞」(4代目 杵屋六三郎作、文政2年=1819年河原崎座で初演) | |
長唄「花見」(小野川檢校作、元禄期=1688~1704年に活躍) | |
かな草子「竹斎」(烏丸光廣もしくは磯田道冶作、1621~1623年成立) | |
元禄花見踊(竹柴瓢助/杵屋正次郎) | |
腰に瓢箪(ひょうたん) 毛巾着(けぎんちゃく) 酔うて踊るが ヨイヨイよいよいよいやさ |
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シンボル→イメージ | 地域・時代など |
腰に瓢箪(ひょうたん) →男性の陰部の暗喩 毛巾着(けぎんちゃく) →女性の陰部の暗喩 |
男女和合 |
長唄「猿舞」(4代目 杵屋六三郎作、文政2年=1819年河原崎座で初演) | |
長唄「花見」(小野川檢校作、元禄期=1688~1704年に活躍) | |
歌詞「よいよい よいよいやさ ひょくりひょ 親父が腰に瓢箪ひつけて ひよひよひよと浮かれた花ゆゑに ひよくりひよ」 キラキラ光る幕の内で行われているのは「親父が腰に瓢箪をひっつけヨイヨイヨイヨイヤサしたところ、女郎花が浮かれてヒヨヒヨヒヨとなって、そしたら親父もヒョックリヒョ」となるようなこと。 |
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かな草子「竹斎」(烏丸光廣もしくは磯田道冶作、1621~1623年成立) | |
元禄花見踊(竹柴瓢助/杵屋正次郎) | |
武蔵名物 月のよい晩は 御方鉢巻(おかたはちまき) 蝙蝠羽織(こうもりばおり) 無反角鍔(むぞりかくつば) かく内連れて |
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シンボル→イメージ | 地域・時代など |
鉢巻 →祭礼、町奴、若者、若衆 蝙蝠羽織(こうもりばおり) →旗本奴、町奴、若者、若衆 ※「蝙蝠羽織」は若衆が着る、袖丈より着丈の短い羽織で、寛永・正保(1624~1648年)の頃に流行。 |
衆道 旗本奴 町奴(助六など) ※若衆は紫帽子や紫の鉢巻を巻いていた。この紫鉢巻は祭礼・神事における「かつら」と関係がある(折口信夫)。 |
長唄「猿舞」(4代目 杵屋六三郎作、文政2年=1819年河原崎座で初演) | |
長唄「花見」(小野川檢校作、元禄期=1688~1704年に活躍) | |
かな草子「竹斎」(烏丸光廣もしくは磯田道冶作、1621~1623年成立) | |
「竹斎(ちくさい)」寛永ごろ製版本で挿入された「播磨侍が黒谷で切腹未遂する」エピソードでは、若侍の宿を訪れる若衆は「総鮫皮の鞘(さや)に金具をすべて赤胴で揃えた豪華な大小を差し、髪はザンバラ、鉢巻を締め、草履取りひとりだけ召し連れ」という様子だった。 若侍が恋しい相手(若衆)に心の中で呼びかけるとき、若衆は「御方(おかた)」「君さま」「若もじさま(文字言葉)」と、呼ばれている。 |
元禄花見踊(竹柴瓢助/杵屋正次郎) | |
ととは手細(てぼそ)に伏編笠(ふせあみがさ)で | |
シンボル→イメージ | 地域・時代など |
とと →衆道における「父・夫」役 手細(てぼそ) →若者・若衆の手拭、女性の綿帽子 |
衆道 あいびき 武士の廓(くるわ)通い ※「手細」は「細布」のこと。若衆が「ほうかむり」に使ったり、女性が「綿帽子」に使った。 |
長唄「猿舞」(4代目 杵屋六三郎作、文政2年=1819年河原崎座で初演) | |
長唄「猿舞」はもとは「奴江戸花槍(やっこやっこえどのはなやり)」という芝居の一部で外題「三升猿曲舞(しかくばしらさるのくせまい)」。 狂言では「奴」は深編笠(ふかあみがさ)に巻き端折り(まきばしょり、伊達巻=腰巻丹前)で、廓(くるわ)通いをする。 |
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長唄「花見」(小野川檢校作、元禄期=1688~1704年に活躍) | |
歌詞「お名をば え申すまいのよ しゃんしゃんしゃんと指いたる長刀」 遊郭に遊ぶとき、武士は顔を隠し、名は名乗らない。 |
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かな草子「竹斎」(烏丸光廣もしくは磯田道冶作、1621~1623年成立) | |
「竹斎(ちくさい)」寛永ごろ製版本で挿入された「播磨侍が黒谷で切腹未遂する」エピソードでは、きぬぎぬの別れを迎えた朝、若衆は自分が主人の寵愛を受ける小姓であること、若侍の身の安全を思えばこそ、恋人関係にはなれないことを告げ、「そのかわり其方(そなた)を親と頼みます、わたしを実子と思ってください。親子として、文通だけは続けましょう」と提案する。 ただし若衆は、このあと病気で死んでしまう。 |
元禄花見踊(竹柴瓢助/杵屋正次郎) | |
踊れ踊れや 布搗(つ)く杵(きね)も 小町踊(こまちおどり)の 伊達(だて)道具 ヨイヨイヨイヨイよいやさ 面白や |
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シンボル→イメージ | 地域・時代など |
布搗(つ)く杵(きね) →砧(きぬた)、夜這い 小町踊(こまちおどり)の伊達(だて)道具 →小太鼓 面白や →風流(揃いの派手な格好をし、集団で道行すること) |
京都 ・小町踊 ※小町踊は小太鼓を叩きながら踊り巡る。 あいびき 夜這い ※全国に残る小町踊は女性の成人を宣言するもので、夜這い解禁の意味があった。 風流踊 ・三味線組歌、盆踊り、祭礼の風流舞楽 |
長唄「猿舞」(4代目 杵屋六三郎作、文政2年=1819年河原崎座で初演) | |
歌詞「色めく飾りの伊達道具」 奴が持つ花槍(花で飾った毛槍か?)を、「伊達道具」と呼ぶ。 |
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長唄「花見」(小野川檢校作、元禄期=1688~1704年に活躍) | |
かな草子「竹斎」(烏丸光廣もしくは磯田道冶作、1621~1623年成立) | |
元禄花見踊(竹柴瓢助/杵屋正次郎) | |
入り来る入り来る桜時(さくらどき) 永当(えいとう)東叡(とうえい)人の山 弥(いや)が上野の 花盛り 皆 清水(みなきよみず)の新舞台 賑(にぎ)はしかりける次第なり |
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シンボル→イメージ | 地域・時代など |
弥(いや)が上野の →「上野」の地口(駄洒落) 永当(えいとう) →人がどっと来る、勢いよくつき進む →「上野東叡山」の「東叡(とうえい)」を逆さにして、花見の頃の上野東叡山を指す地口(駄洒落)。元禄の頃の「上を下へ ゑいとう山の花見かな(荒木加友)」という地口狂歌が元<文政8(1830)年刊「嬉遊笑覧」巻之七 行遊>。 →劇場の「えいっと!」という掛け声を、漢字でお目出度くした文言。「永く当たりますように」の意味。 清水(きよみず)の新舞台 →新富座開場、明治政府、新時代 →上野寛永寺の清水観音堂(「清水の舞台」を模した造り) |
江戸 ・上野山 ・東叡山寛永寺(とうえいざん かんえいじ) ・東叡山寛永寺清水観音堂 京都 ・清水寺 |
長唄「猿舞」(4代目 杵屋六三郎作、文政2年=1819年河原崎座で初演) | |
長唄には残らなかったが、もとの演目・「三升猿曲舞(しかくばしらさるのくせまい)」では、猿冠者が踊るのへ、二人の同僚が合いの手を入れる。
歌詞「晩の泊まりは御油(ごゆ)赤坂に 吉田通れば二階から招く しかも鹿の子の振袖が」 合手「奴のこのこ奴らさ 奴鰻(やっこうなぎ)のぬらくらと どこまであがる奴凧(やっこだこ)」 歌詞「春の日陰のうらうらと 廓(さと)の露霜踏んで 深編笠(ふかあみがさ)にまき端折(はしを)り きやつが元へと忍ぶ身は」 合手「奴の床を右に見て 衣紋を結ぶ奴髭(やっこひげ)」 合手「奴豆腐(やっこどうふ)に振りかけた」 合手「七色奴唐辛子(なないろやっこ とうがらし)」 合手「からい目見せてくれべいか」 歌舞伎上演中の、三階さん(「大向こう」さん)の掛け声に近いことを、かつては舞台上で演出として行っていた。 唄の最後は「栄(さか)ゆる 御世(みよ)とぞ 祝しける」で終わる。 |
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長唄「花見」(小野川檢校作、元禄期=1688~1704年に活躍) | |
始まりの舞台は上野山の花見だが、日が暮れると吉原へ向かう舟の中へ視点が変わる。 歌詞「時めくさとの家桜 けふも暮れぬと告げわたる 告げわたる 恨み重なるあどふのかね 人は散り行くむら烏 われはぬるとも いよ花の雨 その小桜の望月の いっそ消えたや 花の下露」 「徳川家康公の御世を映すかのように、いまや里の家桜は真っ盛り。そこへ無常の鐘(下堂の鐘=僧侶が僧坊へ帰るときの鐘)が「今日も暮れたぞよ」と告げわたるのが、告げわたるのが、無粋でほんとうに憎たらしい。梵鐘が鳴れば、群がる烏が飛び立つように人は散り散りに家路へ急ぐ。そうしてわたしが寝ているあいだも、里にはますます花の雨が降り注ぐのだ。空に浮かぶ満月に比べれば、桜の大木も、ほんの小さな桜にすぎない。その枝の下にいるわたしは、しあわせのあまり花の下露のように、いっそ消えても良いと感じるほど」という意味。 唄は徳川政権の御世(みよ)を望月にたとえ、よろこびを謳(うた)いあげながら終わりとなる。 |
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かな草子「竹斎」(烏丸光廣もしくは磯田道冶作、1621~1623年成立) | |
竹斎(ちくさい)は武蔵国へ到着すると江戸城など見物し、日暮れ近くには浅草寺を訪れるが、同じ観音信仰ということで「浅草や かりそめぶりに みたらしの 流れは同じ ここも清水(ちょっと見ただけだが、清らかな水の流れは同じ、ここも清水寺だ)」と、いう狂歌を詠む。竹斎(ちくさい)にとって、浅草寺は「武蔵国(むさしのくに)の清水寺(きよみずでら)」だった。 徳川の世を称(たた)えつつ、竹斎(ちくさい)の旅物語は終わりを告げる。 |
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上月まこと
本文・イラストともに上月まこと。Copyright ©2020- KOUDUKI Makoto All Rights Reserved. |
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